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宇治橋の歴史は古く、飛鳥時代の大化2年(646)に掛けられたとされています。 『源氏物語』の最後は宇治十帖と呼ばれ、光源氏の子孫たちによる宇治を舞台とした物語が展開しますが、その最初の帖は「橋姫」、最後の帖は「夢浮橋」であり、宇治橋は重要なファクターとなっているのが分かります。能でいうならば『浮舟』の舞台ですね。 また能『鉄輪』で「橋姫」という面が使用されることがありますが、能で夫を呪う女性が、より古い伝承では宇治の橋姫とされていることに由来します。橋は川のこちら側と向こう側を結ぶものですが、そこから連想されて現世と彼岸を結び、この世ならざるものを招くものとして見られているからこそでしょう。能の「橋掛り」自体、そういった思想の上に存在しています。 能『頼政』の後場、源頼政軍が橋板を外して平家軍と合戦する舞台でもあります。クセから語リにかけて、平家方の足利田原又太郎忠綱が馬を川に引き入れ、兵を見事に指揮して対岸まで渡りきったことが物語られます。 能には直接は関係ないですが、『平家物語』内では他に、後に源義経軍と木曾義仲軍がぶつかる戦場でもあります。この時は梶原景季と佐々木高綱の「先陣争い」のエピソードが有名です。何度も戦場になっているのは、それだけ交通の要所だったからでした。戦や洪水で橋はたびたび破壊されましたが、その都度再建され、現在の宇治橋は1996年に完成したものだそうです。 ところで、能『頼政』をパロディにしたもので、通円という茶坊主の亡霊が現れて、旅僧に弔いを頼み、宇治橋供養で茶を点て死んだことを語り舞うという『通円(『通圓』と旧字体で書くことが多いですが)という狂言がありますが、この舞台となった茶店が宇治橋東詰に今も実在しています。 狂言に特定の場所や人物が登場することはほとんどないのですけれど、数少ない狂言関係の史跡です。しかし…そうなると狂言みたいに300人がかりでお茶を飲みに行きたいな、と思ったり(笑) (2003/04/10) |
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