|
聖武天皇が1歳にもならず没した親王(名前不明。基王もしくは某王といわれる)の供養のため建立した金鐘寺が東大寺の始まりです。諸国に国分寺の建立の詔が出された際、大和国分寺にして総国分寺とされ、天平17年(745)に大仏造営が開始、以降東大寺と呼ばれます。 藤原氏の氏寺である興福寺と並んで、南都を代表する寺として栄えますが、平氏政権時代に平家と対立、治承4年(1180)に平重衝に率いられた軍勢に攻められ、その時の兵火によって大仏殿をはじめ伽藍の大半が焼失します。その際の重衝の自責の念を描いたのが復曲能『重衡』です(初演1987年橋の会)。 翌年、源平による内戦が収まったのを受けて、俊乗房重源が東大寺造営勧進職に任じられ、東大寺の再建が進められます。能『安宅』で、富樫は弁慶に勧進帳を読み上げよと命じますが、それは義経一行が東大寺再建の寄付を集める勧進聖に変装していたからです。本物ならば重源が発行した勧進帳を持っているはずだ、という理屈。当然ながら弁慶は持ってないわけですが、白紙をまるで書いてあるかのように読み上げる、それが見せ場となっているのです。 建久6年(1195)、大仏の再建供養が行われ、将軍・源頼朝が正妻の北条政子とともに参列しています。そこに元平家の侍である悪七兵衛景清が頼朝暗殺を狙って斬り込んで来る、というのが能『大仏供養』です。実際の再建供養の日は雨だったそうですが、大仏殿の周りを頼朝警護の東国武者の精鋭が囲んでいたそうですから、相当物々しい様子であったことが想像できます。 兵火による焼失から15年で元の大伽藍を復活させてみせた重源の手腕は驚嘆すべきものですが、彼は勧進職に命じられた時点で60歳。しかも東大寺のほかに播磨浄土寺や伊賀新大仏寺などの造営も行っているといいますから、恐るべき「老人パワー」と言えると思います。 こうして再建された東大寺ですが、戦国時代の永禄10年(1567)に松永久秀によって再び焼失。現在の伽藍は宝永6年(1709)に再建されたものとなっています。 (2003/11/20) |
|