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号は初日山。臨済宗南禅寺金地院の末寺で、本尊は地蔵菩薩。通称は八尾地蔵尊。開山は行基ともいわれていますが、これは摂津河内地方に点在する行基信仰のひとつかもしれず、そのままは信用できなせん。しかし、寛治2年(1088)に白河法皇が参詣した記録がありますので、そのころには存在した古い寺です。 八尾は河内音頭発祥の地とされていますが、特にこの常光寺で伝えられている「流し節・正調河内音頭」は、その原型とされているもので、毎年の地蔵盆(8月23日、24日)には境内で盛大な地蔵盆踊りが催されています。 南北朝時代の戦乱で一度、寺は焼かれているのですが、それを元中2年(1385)、又五郎大夫と呼ばれた藤原盛継という人物が再建したと常光寺に伝わる『常光寺縁起』に書かれています。彼は八尾のあたりで広く活動した商人のようですが、当時流行った「盧病」という疫病から地蔵菩薩の慈悲で救われ、それ以来、常光寺の檀那となったといいます。 狂言『八尾』で、閻魔王に地獄に落とされそうになる罪人は「又五郎と申す者の小舅」ですが、又五郎とはこの藤原盛継のこと。「小舅」は妻の兄弟のことですが、『八尾』の中には「うそふき」の面をかけた男を閻魔が見て「それならば、又五郎が女房も推量した。汝に似たならば見たむなかろ」と言う箇所があります。男は慌てて「いやいや、私は似ませぬ。美しうござる」と否定しますが…実際はどうだったのでしょうか(^^;) 地蔵菩薩は地獄の亡者にも慈悲を垂れる仏であり、時には閻魔王と同体であるとされることもありますが、ともかく、地蔵を拝すれば地獄に落ちることがないとする信仰があり、この寺は大いに栄えたようです。江戸時代の元文3年(1738)に作られた「諸国地蔵尊番付」でも、「河内 八尾地蔵菩薩」は西の横綱として上げられています。 この寺に安置される地蔵菩薩像は平安初期の貴族・小野篁の作とされています。篁は現世と地獄を自由に行き来したとされているわけで、地蔵菩薩像の作者としては非常に相応しいのですが、実際には製作様式から室町前期のものではないか、とされています。伝説は伝説ですが、又五郎大夫藤原盛継が生きていたのは室町前期。狂言『八尾』の地蔵だと考える分には支障はないですね。 (2004/11/08) |
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