東求塚之碑 |
「ひがしもとめづか」と読む、処女塚古墳・西求女塚古墳と同じく能『求塚』ゆかりの古墳です。といっても、西求女塚古墳と処女塚古墳が遺跡公園として整備されているのに対して、東求女塚古墳は明治時代に阪神電車敷設の土取りで取り壊され、現在は碑が残っているのみです。
その碑は阪神本線「住吉」駅から歩いて5分ほど行った公園の中にあります。私が訪れた時も男の子たちが野球をしていて、本当に住宅地の中の児童公園でした。碑の上も小さな女の子がままごとに使っているのか、登ったり下ったりを繰り返し。写真はいなくなった一瞬をパチリと撮りました(笑) ここが古墳であったことはあまり知られていないのか、私がいろいろ写真を撮ったりメモしているのを見て、子どもの母親らしい人が「ここって古墳なんや!」と初めて気付いたようなことを言ってました。
以下、神戸市東灘区が設置した案内板の文章をそのまま載せます。
東求女塚古墳は、御影塚町の処女塚古墳、灘区都通の西求女古墳とともに『葦屋の菟名負処女』をめぐる悲恋伝説ゆかりの塚として古くから有名です。伝説では、菟名負処女をめぐって争った信太壮士の墓だといわれてますが、実際は、このあたりを支配した豪族の墓であろうと考えられます。
現在、墳丘の一部は公園の中に残っていますが、墳丘のほとんどは、土取りによってなくなってしまいました。
昭和57年、遊喜幼稚園の園舎改装工事に伴って行われた発掘調査では、前方部の墳丘の裾部と周濠が発見されました。また、公園整備に伴う調査で後円部の裾部も残っていることがわかりました。
これらの調査の結果から、前方部を北西に向けた全長約80mの前方後円墳で、墳丘の斜面には石が葺かれていたことがわかりました。
東求女塚古墳から出土した遺物は、銅鏡・車輪石・剣・玉などで、明治時代の壁土取りの際発見されました。これらの遺物は、現在、東京国立博物館に保管されています。 この古墳の造られた年代は、出土した遺物から、4世紀後半と考えられます。
遊喜幼稚園というのは公園の隣にある幼稚園のことで、前方後円墳の前方部にあたるそうです。ちなみに公園が後円部。
写真の「求女塚之碑」は、私の漢文読解力の拙さゆえに全てを読み取ることはできませんでしたが、「古来以求女之塚名而其跡荒廃日久」と求女塚古墳の荒廃を嘆く文章のように思えます。建碑年号は大正4年(1915)11月。
(2005/08/12)
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