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近鉄奈良駅前の行基像がある場所から東向商店街に向かい興福寺への坂を上ると左手に北円堂。(これは奈良時代の悲運の左大臣・長屋王が舅である藤原不比等の鎮魂のために立てたお堂で、古代史ファンの私としては非常に興味のある建物なんですが、能・狂言には関係ないので省略。) その北円堂から南円堂へと向かう途中に「薪能金春発祥地」の石碑が立っています。 元々、薪能は興福寺の修二会に付随した神事猿楽でした。「薪猿楽」「薪の神事」という言い方もあり、古くは東西にあった金堂や南大門で数日間演じられました。その始まりははっきりしないのですが、鎌倉時代には始まったともいい、能・狂言が大成する以前からの行事であったことは間違いありません。 世阿弥の著書『風姿花伝』には「大和国春日御神事相随申楽四座」として結崎・円満井・外山・坂戸の四座が書かれており、これらの猿楽座が後の観世・金春・宝生・金剛の各座へと繋がります。多武峰寺(現在の談山神社)と並んで、大和猿楽は春日薪能への参勤義務を負っていたのです。 江戸時代になると大和猿楽四座は幕府お抱えになって、各家元は江戸へ移住します。その結果、筆頭・観世座は薪能への参勤義務を免除され、また寛文3年(1663)以降は、残りの金春・宝生・金剛のうち、2座が交代で参勤することになったといいます。しかし、明治維新で廃絶しました。 現在の興福寺薪能は昭和になってから復興されたもので、南大門跡の「般若の芝」で四流の能が演じられています。各地で篝を炊いて演能する「薪能」が多く催されているので区別するため、特に薪御能と名乗ってています。 (2004/02/18) |
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