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近衛天皇を苦しめていた鵺という怪物は源氏の武将・源頼政に退治されました。頼政は鵺の屍骸をうつほ舟に押し入れて淀川に流したといいます。それが流れ着いたという場所が、淀川も河口付近の都島。漂着した鵺の屍骸は、周辺の村人の手によって埋葬され、さらに祟りを恐れて塚を建てて懇ろに祀った…それがこの鵺塚の由来だとされています。 …倒したなら後始末もしろよって感じですが、頼政(笑) ちなみに「鵺塚」はもうひとつ、兵庫県芦屋市にも存在します。これは能『鵺』の舞台が「津の国芦の屋」と言っていることからの単純な想像なんでしょうけど、一度大阪湾に出て芦屋の浜についたと考えると、ちょっと不自然な気がします。 ここからは私の想像ですが、淀川河口の難波潟辺りは芦がとても生い茂っていたそうです。『百人一首』にも「難波潟短き芦の節の間も…」という歌がありますし、かつて都島に住んでいた私の友人曰く、小学生時代にはまだ芦がたくさん生えていたそうです。そういうわけで淀川河口の辺りを「芦の屋」とでも呼んだんじゃないかなーと思ってます。能『砧』の舞台も「九州芦屋」ですしね。 鵺が押し入れられた「うつほ舟」についてもいろいろ面白い話があるのですが、これはまた能『鵺』についての文章を書く時にでも書くようにします。 ところで、鵺はこの都島にある鵺塚との関連で、大阪港の紋章のサポーターに図案として使われてます(右上の図)。紋章自体は、西洋のルールに則って作られているくせに、サポーターの鵺と、盾に書かれているイチョウの葉っぱ・古代の日本の船ってのが微妙な違和感を醸し出してると思います(笑) どーせなら完全西洋風か、完全和風に統一すればよいのに…。 (2003/02/01) |
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