四天王寺中心伽藍 |
推古天皇元年(593)に聖徳太子の創建による日本最古の官寺。日本仏教発祥の地という意味で、「和宗総本山」を名乗っています。本尊は金堂に安置された救世観音菩薩像ですが、寺号は当時、新しく渡来した仏教を支持する蘇我氏と日本古来の宗教を推す物部氏の二大豪族の狭間で、蘇我氏側に立った聖徳太子が仏教の四天王に祈願して戦いに勝利したことに由来します。
西門には寺にも関わらず鳥居があって、扁額には「釈迦如来転法輪処 当極楽土東門中心」と書かれています。かつてはこの鳥居の場所から海が拝めたそうで、そこから西に広がる瀬戸内海と西方浄土を一体視し、四天王寺の西門=西方浄土の東門と見なされていたのです。最寄り駅「四天王寺前夕陽が丘」の夕陽が丘という地名は、鳥居に沈む夕陽に由来するそうです。能『弱法師』はこの四天王寺を舞台とした曲ですが、クセの後、シテ・俊徳丸が入り日の方向に西方浄土を拝むのも、そういう観念に基づきます。
私は2003年11月1日に初めて四天王寺に行ったのですが、印象に深いのは宝物館の雅楽関連の展示でした。ちょうど天王寺舞楽協会創立50周年記念特別展だったんですね。四天王寺では聖徳太子の建立の頃から仏教式楽として伎楽が習得させられたといいますが、その流れを組む人たちが天王寺楽人となって、今日まで伝統を守り続けています。
能『富士太鼓』はメインとしては富士の遺した太鼓を巡る妻の心情を描くものですが、そのバックには内裏での7日の管絃に天王寺の楽人「浅間」が召されたことに対して、そこへ住吉大社の楽人「富士」が現れ、役を争い、結果として富士が殺されたという事件があります。一人の楽奏家としての浮沈もさることながら、一族一流が路頭に迷うかどうかという問題だったといいますから、その争いは熾烈なものだったといいます。
舞楽『胡蝶』や『抜頭』の装束を見ながら、そんなことに思いを馳せたのでした。
(2003/11/20)
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