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延喜21年(921)に醍醐天皇の勅によって筑前大分宮(穂波宮)から遷座したとされる神社。当時の公式な格の高い神社のリストである『延喜式』神名帳に創建後すぐに載っているので、醍醐天皇勅願というのもあながち間違いではないでしょう。 祭神は八幡大神(応神天皇)及び応神天皇の母である神功皇后、そして玉依姫で、別名・筥崎八幡宮ともいい、宇佐・石清水とともに三大八幡宮に数えられています。 神功皇后が応神天皇を産んだ後、その胎盤(御胎衣=おえな)を箱に収めて埋め、そこに松を植えた「筥松」が本殿のすぐ脇にあり、この筥松のある岬ということで、「筥崎」と呼ばれるようになったといいます。 その縁起を能にしたのが世阿弥作による復曲能『箱崎』です。もっとも能では松の下にあるのは、箱に収められた戒(戒律)・定(精神集中)・恵(真理を見通す智恵)の三学の妙文だとされていますが。 筥崎宮は、表参道がそのまま箱崎の港まで続いているように、海と深い関わりを持っている神社です。古代から中世にかけて大宰府の外港として、中国や朝鮮半島との貿易の拠点ともなったようで、『今昔物語集』などには箱崎の賑わいが描かれています。 箱崎が中国と良きにつけ悪しきにつけ、交流が深かったことは能『唐船』でも分かります。箱崎の何某は中国船との争いの時に、祖慶官人という男を抑留、下人として使っていました。祖慶官人は日本人の女性との間に子を成していましたが、そこに中国で成した子が迎えに現れ、日本で産まれた子も連れて祖国へ帰るのでした。 ちなみに、能『唐船』ではあえて日本人の妻のことが描かれていませんが、筥崎宮での伝えによると置いていかれたとされており、境内には祖慶官人の帰国の際に夫婦が腰掛けて名残を惜しんだとされる「夫婦石」があります。廃曲能として後日談にあたる『箱崎物狂』という曲があったそうで、置いていかれた妻が物狂として登場するそうですが…。 ところで本殿の正面には「敵国調伏」と少々穏やかならぬ額が掲げられています。これは中国や朝鮮半島と近いがために元寇(モンゴル帝国の侵入事件。1274年、1281年)の際に社殿が焼き払われ、その後の再建の際に亀山上皇から贈られた字なのだそうです。このことからも、筥崎宮は良くも悪くも海外との接点となった神社といえますね。 (2004/12/17) |
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