清水寺本堂 |
北法相宗本山。といっても「一寺一宗」というそうで、末寺はありません。「北法相宗」は1965年に法相宗から独立したもので、元々は法相宗総本山の興福寺の末寺。南都仏教の京都における拠点のような立場で、よく比叡山延暦寺との衝突で、伽藍は何度も焼失・再建を繰り返したそうです。現存の建造物のほとんどは江戸幕府三代将軍徳川家光の再建によるもの。
開山はかの征夷大将軍・坂上田村麻呂。本尊は十一面千手観音菩薩。その田村麻呂が千手観音の功徳によって、伊勢平定を成し遂げることを描いているのが能『田村』です。一応は修羅物に分類されてはいる『田村』ですが、前半で寺の縁起を語っていることと言い、仏教的脇能としての性質が強いように思います。
平安時代後期にはかなり盛んに信仰されていたようで、『枕草子』や『源氏物語』にも参拝客が多い様子が描写されています。平安時代以降も常に京都の名所としてあり続け、『熊野』では平宗盛が熊野を連れて花見に行く場所であり、『花月』は参拝客に清水寺の縁起を語って聞かせていた少年芸能者たちをモデルにした能なのです。
また、特に舞台でなくとも『放下僧』に引かれた小歌(元は『閑吟集』)に「おもしろの花の都や。筆に書くとも及ばじ。東には祇園清水落ちくる瀧の。音羽の嵐に。地主の桜は散り散り」と謡われたり、清水観音の御歌とされる「なほ頼めしめぢが原のさしも草 われ世の中にあらん限りは」(『新古今和歌集』巻二十 釈教)は少し形を変えて、『船弁慶』に使われたりもしています。
狂言でも、清水寺の信仰が一般的であったことを表すかのように、『成上り』『二九十八』『吹取』『伊文字』『武悪』『居杭』など多くの狂言に清水観音信仰の要素が含まれています。
(2003/11/20)
|