泉涌寺舎利殿 |
天長年間(824〜834)に弘法大師空海が東山に結んだという法輪寺がこの寺の母体だといいます。後、仙遊寺と改称されますが、建保6年(1218)に月輪大師が中国の宋様式を取り入れた伽藍を営んだ際、寺地の一角から清水が湧き出したため、泉涌寺と名付けられたと言います。
仁治3年(1242)に四条天皇がこの泉涌寺に葬られて以来、歴代天皇の陵が寺内に営まれるようになり、天皇家の菩提寺となります。そのため、通称が「御寺」。今でも境内の霊明殿には天智天皇以降の歴代皇族の位牌が祀られているそうです。
能『舎利』の舞台とされる舎利殿は、もと御所にあった御殿を重層に改装したものだそうで、内陣の宝塔の中に仏舎利を安置しているといいます。残念ながら、舎利殿の内部公開は行われておらず、見れません。…舎利殿こそ目的だったのに(汗)
『林望が能を読む』にこうあります。「泉涌寺には、古く中国から伝来せる有名な韋駄天像があって、そういうものには当然韋駄天と足疾鬼(捷疾鬼)との仏舎利を巡る闘争譚が付属すていたに違いないから、本曲のごときは、むしろ、そういう泉涌寺所伝の講説などに基づいて脚色されたと考えるのが当然であろう…(中略)…泉涌寺の開帳か何かの折に、人寄せ宣伝のために作劇されたものではないか」 林望さんの著書のすべての説に同意できるわけではありませんが、能『舎利』に関しては、とても的を得ていると感じています。(感じるだけで、証拠はないですけど(笑))
泉涌寺には舎利殿や本殿のほかに、楊貴妃観音堂という、玄宗皇帝が楊貴妃の姿を写して作らせたという観音菩薩を祭ったお堂があって、割と人気があります。ただ…どうしても眉唾ものに思えてなりません(汗) こういう信仰には史実性はどうあれ、そう信じることが大切なのは分かってはいるのですが。
(2004/01/01)
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