霞たなびく吉野山 |
吉野山にある金峰山寺は修験本宗の総本山。修験道の開祖である役行者が開き、蔵王権現を祀ったのがその始まりとされています。蔵王権現は吉野の神であり、桜はその神木。吉野の桜を移植したとされる嵐山にも、時折蔵王権現が出張して登場する、とするのが能『嵐山』です。
天武元年(672)、天智天皇の後継を巡って、天智天皇の弟である大海人皇子と、息子である大友皇子の争いが起き、大海人は吉野に逃れます。その出来事を元に、後に大海人が勝利して天武天皇として即位するのは、吉野山の蔵王権現の威徳による、とするのが能『国栖』です(子方の浄御原天皇というのが、大海人皇子です)。『国栖』の途中、アイの追手がやってきたのを前シテが言葉巧みに追手を追い返すのは、吉野の豪族が大海人方についていたことを示すのだと思います。
また大海人皇子が勝手神社の神前で琴を奏でていると、天女が現れ舞を舞って吉兆を示し、皇子が即位した後、その時の舞を元に五節舞を作ったといわれています。『国栖』の後場、ツレ天女が舞う[下リ端之舞]はその故事に由来することですし、観世流のみの能『吉野天人』はその故事の再現を目的とした曲です。
『国栖』以外で、吉野山と能の関係をいえば、静御前と源義経の別れの場ということができます。『船弁慶』では、尼崎の大物浦で2人が別れたとしてますが、それは能の虚構で、本当は吉野山で別れています。
そのため、吉野を舞台にした静御前関係の能として、『二人静』『吉野静』などを挙げることが出来ます。勝手神社は先に書いた五節舞の説話があるほかに、義経と別れた静御前が捕らえられた後、請われて舞を舞ったとされる地でもあります。
(2003/02/01)
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