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鏡が池
鏡が池

松山鏡の碑

 能『松山鏡』ゆかりの土地です。今は「まつやまかがみ」と読みますが、古くは「まつのやまかがみ」と読まれたといいます。

 あまりメジャーな能だとも思えませんので、簡単にあらすじを書いておきます。

 越後国松之山に住む男は、妻の三回忌の命日に持仏堂へ向かう。すると、そこにいた自分の娘が何かを隠すので、世間の噂のとおり、新しく迎えた継母を呪詛しているのだと思い叱る。しかし隠したのは亡き母が遺した鏡で、娘は鏡の中に母の姿が見えると慕い泣く。鏡に映る自分の姿を母と信じていたのだ。
 そこに、あまりの娘の心に感じて地獄から母の霊が戻って来、鏡にまつわる説話を語る。そのうち地獄から倶生神が現れ、母を連れ戻そうと鏡に娑婆での罪科が写っていると母に示すが、そこに写っていたのは菩薩の姿だった。娘の孝行心の故である。胸を打たれた倶生神は母を連れることなく、地獄へ戻っていったのだった。

 現在の松之山町(2005年4月1日に十日町市と合併)は温泉地として名高く、仲には鏡が池から名付けられた「鏡が湯」という源泉もあります。美しい棚田が多く、田園風景が広がる長閑な町で、本当にさわやかでした。

 地元に伝わる伝説は多少能の話とは違って、「松之山に住む男」は奈良時代の万葉歌人・大伴家持で、蝦夷征伐に失敗した罪により越後に配流されて松之山中尾の鏡が池の近くに住み着き、その名も篠原刑部左衛門と変えていたといいます。そして、継母に折檻されていた娘(名前は京子)が、鏡が池の水面に映った自分の姿を母だと思い、飛び込んだのだそうです。

 大伴家持が特に越後に住んだ史実がある証拠は見当たりません。隣の越中には国守として4年間赴任していますので、何かの機会に越後を訪れなかったとは言い切れませんが推測の域を出るものではありません。ましてや住み着いたとは言うことはできないでしょう。

 また晩年に蝦夷征伐のための陸奥按察使・持節征東将軍、鎮守府将軍などに補されていますが、特に功績や失敗などは知られておらず、そのまま延暦4年(785)に没します。没した直後に当時造営中だった長岡京の建設責任者・藤原種継が暗殺された事件に関して首謀者とされ、除名・官位剥奪・領地没収のうえ、その遺骨が隠岐に流されました。この辺りのことが、伝説に影響はしているのでしょうが、伝説は伝説として考えるのが良さそうです。

 現在の鏡が池は、昔は広大な池だったそうですが何度もの地すべりによって荒地となっていたのを、昭和61年(1986)に公園として整備したものです。伝説で家持が散策したという「かささぎの橋」という石橋が架けられ、アヤメなどが植えられています。また家持の万葉歌碑があって、三首の和歌が書かれています。

あしひきの山桜花 ひと目だに
 君とし見れば吾恋ひめやも

吾が宿の萩咲きにけり 秋風の
 吹かむを待たば いと遠みかも

かささぎの渡せる橋に おく霜の
 白きを見れば夜ぞふけにける

 この松山鏡の話は、能以外に長唄としてもあり、明治34年(1901)には「孝子の鑑」として、尋常小学校国語読本に紹介されています。

(2004/08/18)

DATA
新潟県十日町市松之山中尾

能『松山鏡』の舞台。
底より曇り真澄鏡 あれこそ母よ御覧ぜよと我が影に指をさす げに哀れなりさればこそ稚き身の心なれ


交通
・東頸城バス「中尾鏡が池」

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