捕われの少女…じゃない?

 久しぶりの能や狂言に関する話題です。最近の例によって10日前の回想ですが(笑) 今月16日に初めて行った大阪金春会の感想です。金春流の能を見るのは随分久しぶりな気がします。8月の大阪薪能で、佐藤俊之先生の半能『高砂』を拝見しているのですが…。

大阪金春会
◆11月16日(水)18時~ 於・大槻能楽堂

★解説「能楽の見方」高橋忍

★大蔵流狂言『栗焼』
 シテ(太郎冠者)=善竹忠一郎
 アド(主)=善竹隆司

★金春流能『自然居士』
 シテ(自然居士)=金春穂高
 子方(少年)=金春嘉織
 ワキ(人商人)=福王和幸
 ワキツレ(人商人)=福王知登
 アイ(雲居寺門前の者)=善竹隆平
 地頭=高橋汎
 笛=赤井啓三 小鼓=荒木賀光 大鼓=辻芳昭

 平日の18時からですから、仕事のある人は見に来づらいだろうなと思っていたら、大入りでした。さすがに最初は空席が目立っていたのですが、高橋忍師の解説の間に、どんどん埋まっていってびっくりしてしまいました。その高橋忍師の解説も面白くて良かったです。正に見るためのヒントをいくつか教えてくださる、といった感じでした。

★大蔵流狂言『栗焼』

 主人が太郎冠者に、40個の栗をもらったので、客にふるまいたい、数に気を付けて焼き上げよと言いつけます。太郎冠者は台所で栗を焼き上げるのですが、皮をむき終えて見ると、あまりに旨そうなのでついつい食べてしまいます。気がつくと四十個の栗を全部食べてしまっていました。困った太郎冠者は主人に「かまどの神」とその34人の公達に栗を進上したと言って誤魔化すが、嘘がばれて叱られてしまうのでした。

 秋の季節感漂うステキな狂言です。栗を焼く場面で、めをかく(切れ目を入れる)のを忘れて焼いたために栗が飛び跳ねる様を表したり、焼きながら「飛ぼうと身づくろいをしておるが、めをかいたによって飛ばれまい」「小歌を歌うわ。なに。(耳を澄ます)シューシュー」などと栗に話しかける様子が秀逸。見ているだけで、微笑ましい気持ちになってきます。

 後半、目の前の栗を食べる箇所は、何かと理屈をつけて自己欺瞞していく心理描写が大好きですね。「お客に味を聞かれて、答えられないと恥になる。これは自分の恥ではなくて、頼うだお方(主人)の恥だ」なんてことを言ったりして(笑) そして食べ始めると全部食べてしまうというのも、なんだか自分の経験と重ねてしまいます。

 最後の竈の神が現れたと言い繕いをする場面は謡あり舞あり。最後まで楽しさ満載の狂言です。それにしても、時間が時間(18時半過ぎ)だけあって、見ていてお腹の空きました(笑) 等身大の太郎冠者、自らと重ね合わせて見てしまいました。

★金春流能『自然居士』

 『自然居士』は能の中でも特に好きな曲です。あらすじは京都若手能の時に載せましたので、そちらを参照ください。しかし、初めて観世流以外の『自然居士』を見ましたが、いろいろと違うところがあって面白かったです。

 最大の違いは子方が少年だったことです。事前の高橋忍さんの解説によると、観世流では少女に固定しているが、金春流においては男女両用があるとのこと。今回は少年バージョンだったようです。

 しかし、やはりドラマとしては「捕われの少女を助ける」の方が私は好みです。古今東西、物語でさらわれるはヒロインなのが定番じゃないですか(笑) また、大学の能楽の教授に「今の能を見ていると自然居士は青年のように思うかもしれないが、喝食の面を使うんだから少年のはずだよ」と仰っていたことがあるのです。となると、少年があまり年の違わない少女を助けるために頑張る冒険活劇なのかな、と考えているもので。それが少年が少年を助ける話となると、かなりイメージが変わってきますよね。

 他の違いとしては、今まで見た『自然居士』がアイの名乗りから始まったのが、最初にワキが登場して「買った子どもが戻らない」といって、舞台後方に控えてからアイが登場したこと。よりワキの存在が強調される演出だなぁ、と感じます。

 全体的にワキのセリフにインパクトのあるものが多く感じられました。例えば人商人たちが、自然居士の弁舌と座りこんで動じない態度を持て余して、少年を返そうと決めたときに

シテ「ああ船頭殿のお顔の色こそ直りて候へ
ワキ「(憮然として)いやちっとも直り候ふまじ

とシテの皮肉が皮肉をいうのも珍しいですが、ワキの憮然とした物言いはインパクトがあります。その後、舞を舞おうとしない自然居士に無理に烏帽子を渡すときに一度、わざと地面に置いて、さらに

ワキ「居士に烏帽子が似合いて候

と皮肉の逆襲をします。この辺りのやり取りは狂言にも通じるように感じて好きですね。そして、とりあえず中之舞を舞う自然居士ですが、舞い終わったらすぐに人商人は

ワキ「(やはり憮然として)あまりに舞が短うて見足らず候

と突っかかるので、自然居士は仕方なく

シテ「さらばこのついでに舟のめでたき事を申そうずるにて候

とクセ舞に繋げます。シテとワキとの対立関係がより鮮明なんですよね。それが舟を寿いだ後から「我らが舟を龍頭鷁首とおん祝ひ過分に存じ候」と言って態度が徐々に軟化。最後の羯鼓の前に、ワキが「元より鼓は」と謡い、地謡が「波の音」と受けるのはワキも含めた全体で盛り上がっている雰囲気が出て遊興の楽しさの演出になっていると思います。

 「あまりに舞が短い」「船のめでたきことを申そう」のやりとりは観世流にはありませんし(代わりにシテ「そもそも舟の起りを尋ぬるに。水上黄帝の御宇より事起って」「流れ貨狄が謀りごとより出でたり」という謡がある)、流派による表現の違いを存分に堪能できた能でした。

 ところでアイの門前の者のキャラクターが好きです。例えば人商人が少年を連れ去ろうとする時のやりとり。

アイ「やるまいぞ。やるまいぞ
ワキ「(アイを睨んで)用がある
アイ「用があってもやるまいぞ
ワキ「(刀に手をかけ、より強く)用がある!
アイ「…用があるなら連れてゆこうまでよ

 …一度は「用があってもやるまいぞ」とカッコ良いことを言いながらも、すぐ譲歩してしまうんかい、とツッコミを入れたくなるようなアイの人物。でも等身大で憎めないんですよね~。このあと、しっかり自然居士に「御注進」して、次の展開に繋がります。善竹隆平師と相手役の福王和幸師のやりとり、良かったです。

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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4件のフィードバック

  1. あき より:

    お久しぶりにカキコします。
    私も見てたのですが、これ見て改めてへぇ~って思うことしきりでした。(汗。後半詞章あんまわからなかったので。。(^_^;)
    改めて、またみたくなりました(^^)
    私ははじめてみたのですが能と言うより演劇っぽかったですね。
    ワキとの掛け合いがおおくて。
    ワキの船頭(?っていうのかな)シーンなんかふな弁慶のシーンを髣髴とさせて緊迫するものがありました。
    かっこよかったですね~。
    子方、少女バージョンのほうも見てみたいですね。
    昔の物語だからきっと男の子だったんだろうけど、少女のほうがより感動しそうな感じはします。
    シテ方の方が少年ってのは想像できないですけど(^_^;)
    「あきさせない工夫」いろいろありましたよね~。
    中の舞も途中で終わり(え、もう終わりって感じこちらもしましたし)その後、鞨鼓と。
    私は後半は筋がよく取れなかったのですが舞だけ見てても面白かったです。
    狂言のキャラクターも面白かったですよね。
    すぐに少年(少女)を明渡してしまって(^^ゞ
    過去の日記も見てましたら、流派によっても異動が激しい曲なんですね。
    >ワキが「元より鼓は」と謡い、地謡が「波の音」と受ける
    現行の金春流の謡本で確認しましたよ(^^ゞ
    ワキ方にあわせるってのも珍しいですね。
    きっと関東ではワキが謡うのがメジャーかもしれませんね。
    (そういえば舞の前にこう謡いだすのも珍しいですね。普通は地謡だけとかシテ→地謡とかだから)
    シテの速さとかも全然ちがうのでしょうか?
    (個人的にはもっと早く動くのかなぁと思ってたのでちょっとビックリしました)
    金春流内でも、追いかける場面の型とか、子方の装束とかいろんな演出があり、また他流派でも大きな違いがあり、何度もみてみたいです(^^)
    地頭、番組には載ってなかったんですがそこまでチェックしてるのはさすがです(^^ゞ
    ただ、金春安明師ではなくて高橋汎師ですよ~。
    地頭の座る位置が観世とは違いますんで(^^)
    ほんとややこしいですけど・・
    取り留めのないカキコですけど。。。
    また、ちょくちょくのぞかせていただきます。
    では。

  2. あきさん、こんばんは。コメントありがとうございます。
    高橋忍さんも仰ってましたが、
    能『自然居士』の作者は世阿弥の父・観阿弥だそうです。
    世阿弥の書いた能のような形が整った能ではありませんが、
    草創期の能が持つ「力」を感じる能だと思っています(^^)
    子方が本来、男女どちらだったのかはよく分かりませんけれど、
    最初に子方が捧げた風誦文に
    「かの西天の貧女が。一衣を僧に供ぜしは。
     身の後の世の逆善。今の貧女は親の為」
    と「今の貧女」とありますから、少女ではないかと思うのです。
    しかし、上に引用したのは観世流謡本(笑)
    金春流謡本で引用しなくては説得力ないですよね(^^;)
    また時間があれば、見てみます。
    今の演じられ方ではシテは青年としか思えませんよね。
    昔はよほど演じられ方が違ったのか、
    それとも教授が間違ってらっしゃるのか(笑)
    そんなことを考えるのもまた楽しいです。
    >>私は後半は筋がよく取れなかったのですが舞だけ見てても面白かったです。
    後半は筋よりも舞(芸)を見せる方が重点ですしねぇ。
    細かいあらすじは、観世と金春と宝生・金剛・喜多の場合で
    微妙に違うそうですが…(清田弘『能の表現』p179)
    舞の前にワキの謡が入るのは確かに珍しいですね。
    現行ではありませんが、古い福王流の謡本だと、やはり
    ワキ「元より鼓は」地「波の音」だそうで、
    金春流の謡本に古い形が残っているのかもしれませんね。
    地頭のこと、失敗です。はぅっ!
    金春流だから観世とは左右逆、って意識してたつもりが
    ぜんぜんなってませんでした。ご指摘ありがとうございます。

  3. あき より:

    >草創期の能が持つ「力」を感じる能
    素敵な言葉ですね~。
    典型にはそってはいないけど、魅力的な能。
    それが自然居士なんですね。
    こんな能がのこってるってすっごく素敵ですね~。
    それから、風誦文から子方は少女かもって推測されててすごいです!
    私なんか昔は男性が主役のものが多いから単純に男だろう・・って考えただけなので(^_^;)
    風誦文の文句は金春流も同じでしたよ~。
    解説見たら故事からとってるとこのようですね。
    ちょうど今習ってるとこなんですが、ゆげひさんの書き込み見てひさびさに解説読みました。
    (普段よまないので・・)
    なんかすっごく勉強なってます。
    ほんとありがたいなぁって思います。
    これ見てなかったら、もう内容忘れちゃってるかもしれませんので・・(^^ゞ
    地謡の事とんでもないです(^^)
    それより普段見慣れていない流派でも地頭チェックされてたんだぁってビックリしました。
    しかも名前まで覚えてられてて。
    では、では。

  4. もっとも、昔は自然居士の説法の場面もあったらしくて、
    必ずしも原作通りというわけでもないのですが。
    『自然居士』のほかに観阿弥が作った能には、
    『卒都婆小町』や『四位少将』(『通小町』の原作)などがあって
    どれも私、好きな能です(^^)
    風誦文の文句は『賢愚経』という書物にある説話に由来する
    言葉のようです。でも『賢愚経』では、貧しい夫婦らしいです。
    それを能『自然居士』では敢えて「貧女」としたのも、
    子方が本来、少女であったためかな、と思ったりしてます。
    能も演劇だと思っているので、いろいろ考えてしまいます。
    地頭チェックは、いつも書いているのに、
    書かないのも変かな?と思って。
    金春流の能楽師の方々のお顔はあまり存じ上げないのですが
    金春安明師や高橋汎師のお顔は存じているので。