福王家歴代が載っている辞典は?
さて、最近の私は、兵庫県三木市に10近くも神社能舞台が現存することを知って、調べて回っているのですが、とある神社で、「福王流始祖は三木出身で、福王家が通ったルート上に能舞台がある」という話を聞いたことがあって、初期福王家にも興味を持って調べています。
先日少し時間ができたので、大阪市立中央図書館にて人名事典をいろいろ引いてみました。さすが大阪市立中央図書館。人名事典だけでひとつ棚があって、調べ甲斐がありました。どの人物がどの人名事典に載っているかを掲載した本などもあって、まずはそれで下調べ。
福王姓の人物を最も多く収録しているのが講談社『日本人名大辞典』。江戸時代の福王家歴代が載っています。初世の福王神右衛門盛忠についてはこんな感じです。
福王盛忠 ふくおう-もりただ
1521-1606。戦国-織豊時代の能役者ワキ方。大永元年生まれ。福王流初代。もとは播磨(兵庫県)三木郡福王七社の神職。観世座のワキ方観世小次郎元頼らにまなぶ。織田信長にめしだされて観世座のワキ方になったといわれる。以後代々座付きの地位をたもった。慶長11年7月15日死去。86歳。播磨出身。通称は神右衛門。号は遅斎,知(智)斎。
講談社『日本人名大辞典』
今回私が今日引いたのは福王家関係者の項目だけで、それだけで判断するのは烏滸がましいとは思いますが、それでも印象を述べると、講談社『日本人名大辞典』は収録人物が約6万5千人と多くて読みやすいのですが、そこで完結して次に続かないという感じがしました。
例えば「福王七社」という言葉。今のところ、私が集めた福王家の資料には「福王七社」という名前は登場しないのです。三木市内にも福王という地名は見当たりません。今回『日本人名大辞典』を引くことで、典拠となる文献が示されていないか期待したのですが、そのあたりが示されていません。
もう一つ言うならば、「織田信長に召し出された」という表記。これは福王家側の伝承に基づく「享保六年書上」や「素謡世々之跡」といった文献にはありますが、それは祖先や流儀の顕彰という意味合いが強い気がします。せめて「信長に召し出された、という」という推定ぐらいで。信長が梅若を贔屓にしていたのは『信長公記』などに載っていますが、福王との関わりがあったかは今のところ、分かりません。
そういう記載への不信感を感じた『日本人名大辞典』に対して、私が感動したのが岩波書店『国書人名辞典』。これは『国書総目録』に収められた書物の著編者の伝記を集めた本です。こちらの収録人数は約3万人。『日本人名大事典』の半分以下ですが、元々の作られた経緯による性格もあるとは思いますが、掲載人物の著作と参考文献がきっちり載っていて、信頼性が高いです。もっとも、著書が残ってる人物に限られるので、福王歴代では二人しか載ってませんでしたけれどね。
しかし、福王家歴代のほかに「福王是翁」という人物が載っていて気になりました。この人物は能役者ではなくて心学者なんですが、『播州三木孝子行状伝』という著書があるんです。つまり三木の福王家! 四代盛厚の没後、能楽ワキ方の福王家は観世家からの養子が入り三木から離れ江戸に移ったらしいのですが、それとは別の福王家が三木に続いていたのだと想像できます。
なんだか新しく分かったこともでてきて、楽しくなってきました。
柏木 様
ご推測通り三木市に能楽とは別の方向へいった者が姓を変えて残っています。
福王の供養塔も残っています。
今回、三木JCが福王流の姫路の江崎様に依頼して能楽教室を開きます。
参加者も募集しております。
コメントありがとうございます。今年三木で催されるワークショップは、偶然サイトを見つけまして、非常に嬉しく思っております。
是非共いろいろとお教え下さいませ。
柏木 様
実は、福王供養塔は渡邊家の墓地にあります。
文書から三木姓→福王姓→渡邊姓
に変わってきました。
能楽のほうへいったものは福王に、この地に残って職が変わったものは渡邊に、福王と渡邊、屋号の野田屋を使っている時がありました。
渡邊様
こちらの手違いで、せっかく頂いたコメントが長い間承認待ちの状態になっていましたこと、お詫び申し上げます。本当に申し訳ございません。