狂言《金岡-大納言》がすばらしかった「あふさか能」

2016年あふさか能

開演時間を1時間遅いほうに勘違い

一昨日、大槻能楽堂へ「あふさか能」を見に行ってきました。

なんと開演時間を1時間、遅い方に勘違いしてしまい、到着したら、最初の能《蝉丸-替之型・琵琶之会釈》は逆髪の道行の終わり。出会いと別れのドラマはそこから見れば十分な筈ですが、やはり物足りない。《蝉丸》という能は、逆髪と蝉丸の出会いの前に約1時間もの時間をかけて蝉丸の情景を描くわけで、逆説的ですが、そこの重みを感じることとなりました。

なお「替之型」の小書で両ジテ扱いとなり、常ではツレの蝉丸を大槻文藏さん、逆髪を赤松禎友さんという配役。藁屋の中の蝉丸が「世の中は、とにもかくにも有りぬべし」と和歌を謡う場面は風情があっただけに、遅刻して途中からとなったことが残念に思えてなりません。(なお、この場面に笛のアシライが入るのが「琵琶之会釈」なんだそうです)

初めて見た和泉流の大曲《金岡-大納言》がすばらしかった

ただ、《蝉丸》から続いて演じられた小笠原匡さんの狂言《金岡-大納言》が素晴らしかったです。

全くぶれのない端正な立姿・舞姿で、翁烏帽子に指貫という貴族然とした姿の上品さと様式性を表現した上で、それを少し傾けることで生まれる滑稽さが最高。こんな演技を今まで見てなかったのは勿体なかったなあ、と感じました。

最初の出で狂い笹を持ち、橋掛で「いかにあれなる童ども、何を笑ふぞ」と謡うのは、直前に上演された《蝉丸》の逆髪と同じだったので、まるで《蝉丸》が《金岡》の前座のようにも思えました。指貫も重なっています。

《金岡》を見ながら、なるほど、恋の狂乱とは、と妙に納得しました。恋愛をすると、突然ロマンチックになったり、些細なことにも敏感になる。本人は真剣なのだけれど、外から見ると滑稽で、笑いの対象となるんじゃないか。能でも物狂を「面白う狂へ」と言う根源はこういうことかな、などと思いつつ。

《猩々乱-双之舞》は面白みも感じる

最後の《猩々乱》も「双之舞」猩々が二人出てきて両ジテとなるもの。下リ端の囃子ではシテの一人・梅若猶義さんだけが登場し、謡に入ってから「この友に逢ふぞ嬉しき」で、幕に向かって招き扇をして、もう一人のシテ・生一知哉さんが登場しました。生一知哉さんは蹴り足など強い感じだったのに対して、梅若猶義さんは抑えた型で舞われました。

乱に入るところで知哉さんが橋掛の一ノ松で床几にかけて、初段までは猶義さんだけが舞い、二段からしばらく橋掛と舞台で同じ型を舞う進行。パンフレットにも使われている、乱の後半にある足を上げる型の後、猶義さんは面を伏せてうずくまり、最後は知哉さんだけで舞う形でした。そしてキリ前の「只今返し与ふるなり」と知哉さんが謡った後、扇を抱えて眠る体。猶義さんがキリを舞い、「醒むると思へば」で起こす型だったのは少々面白みも感じました。

そのあたりを見ながら、文楽の「二人三番叟」を思い出して、祝言の芸を二人で舞うというのは、ある程度の滑稽さを伴うのだろうか、なんて空想に至りました。もちろん能と文楽を全く同じに見ることはできないとは思いつつも。

あふさか能の会としての性格は?

「あふさか能」は以前「能楽協会大阪支部特別公演」だったものですが、客入りは6割程で少々寂しい。チケットも当日パンフレットも、PCが使える内輪の人が作ったようでした。それはそれで悪くないとは思うのですが、一方で「特別公演としての格」も意識されているようで、会としての性格付けが分かりづらい印象でした。

第五回あふさか能

2016年9月22日(木・祝)13時~。於・大槻能楽堂
★観世流能《蝉丸-替之型・琵琶之会釈》
シテ(蝉丸):大槻文藏 シテ(逆髪):赤松禎友 ワキ(清貫):福王茂十郎 ワキツレ(輿舁):広谷和夫・中村宜成 アイ(博雅三位):善竹隆司
笛:赤井敬三 小鼓:荒木賀光 大鼓:辻芳昭
地頭:上野朝義
★和泉流狂言《金岡-大納言》
シテ(金岡):小笠原匡 アド(金岡の妻):野村万禄
笛:赤井敬三 小鼓:荒木賀光 大鼓:辻芳昭
地頭:野村万蔵
★喜多流一調《遊行柳》
謡:高林白牛口二 太鼓:三島元太郎
★観世流能《猩々乱-双之舞》
シテ(猩々):生一知哉・梅若猶義 ワキ:福王知登
笛:斉藤敦 小鼓:清水晧祐 大鼓:守家由訓 太鼓:中田弘美
地頭:大西智久

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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