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宮中の歌合で小野小町の相手と決まった大伴黒主は、前日小町の邸に忍び込み、小町が和歌を詠じているのを盗み聞きする。<中入> 当日、紀貫之・河内躬恒・壬生忠岑らが列席して歌合が始まる。小町の歌は天皇から絶賛されるが、黒主が古歌だと訴え、証拠に『万葉集』の草紙を出すので小町は窮地に立つ。しかし、よく見ると墨色が新しいので、天皇の許しを得て水をかけると、入れ筆だった歌の文字は消えて流れた。面目を失った黒主は自害を謀るが、小町のとりなしで事なきを得、人々の勧めで小町が和解を祝う[中之舞]を舞い、めでたく歌合は終わる。
能には小野小町が登場する『卒塔婆小町』『鸚鵡小町』『関寺小町』といった一連の「小町もの」と呼ばれる一連の曲がありますが、それらは皆老いた後の姿を描いています。『通小町』には若い小町の姿で登場しますが、謡には「市原野辺に住む姥ぞ」とあるので、中年女性の姿で演じるのが本来の演出だったといわれています。 現在、若く美しい盛りの小町が登場する能の曲はこの『草紙洗』のみです。やや大げさにいえば、ミステリー的な展開を持つ現在進行形で演じられる能だけに分かりやすく、私も大好きな曲です。 もっとも、"犯人役"にあたる大伴黒主(史実では「大友黒主」)は小町より一世代早い人物で、さらに紀貫之・河内躬恒(史実では「凡河内躬恒」)・壬生忠岑たちは小町より50年ほど後の人物です。これら全員が一同に会する『草紙洗』のストーリーは荒唐無稽といってもいいぐらいなのですが、劇として見ると、能の形式で平安時代絵巻を見ているかのような気を起こさせる面白い曲となっています。 この『草紙洗』の作者がこのストーリーを創作する際、『古今和歌集』の仮名序を参考にしたと思われます。『古今和歌集』仮名序は紀貫之による著作ですが、そこには6人の歌人の歌に対する評価が書かれています。この6人とは在原業平・僧正遍昭・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町、いわゆる「六歌仙」なのですが、小町と黒主の歌はこう評されています。 (小町)「衣通姫の流れ いはば良き女の、なやめるところあるに似たりけり」 これは歌に関する評価なのですが、それをこの能『草紙洗』では人物評価に使い、小町は「衣通姫(体の美しさが衣を通しても伝わる女性の意で、絶世の美女のこと)」の流れで「悩める女性」となり、黒主は「いやしい」男とされたわけです。紀貫之が重要な役を占めるのも、仮名序の作者ゆえでしょう。 紀貫之に凡河内躬恒・壬生忠岑、そして謡にも登場しませんが紀友則を加えた4人は『古今和歌集』の撰者たちです。そのため、子方が演じる天皇は『古今和歌集』撰集を命じた醍醐天皇とみなしていいでしょう。 話は急に変わりますが、明治から昭和にかけて活躍した日本画家の上村松園は能に題材を取った作品をいくつも残しており、中には能『草紙洗』に題材をとった『草紙洗小町』(1937年)もあります。 私は高校生の最後のころに近代の歴史画を見るのにハマった時期があり、図書館にあった図録を片っ端から見てまわっていたものですが、松園の『花がたみ』(1915年)の美しさの中の人物の異常さに強烈なインパクトを与えられ、一気に松園ファンになってしまいました。当時は能の「の」の字も知らなかったのですが。 後に能に親しむようになった時、ちょっと不思議な縁を感じたものです。 (2004/10/17) |
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