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源氏の武将・熊谷直実は出家して法名を蓮生と名乗る。蓮生は昔、手にかけた平敦盛の菩提を弔う為に須磨の浦へ赴くと、何やら懐かしい笛の音が聞えてきて草刈男たちが現れる。法師は男達に「笛を吹いていたのはあなた方の仲間か」と問うと、中の一人が笛にまつわる話をし、法師に十念を授けて欲しいと頼む。理由を尋ねると男は自らが敦盛である事をほのめかして消え失せる。<中入> 法師は里人に敦盛の最期の話を聞き、回向を勧められる。夜もすがら読経して弔っていると敦盛の霊が現れて平家一門の栄枯盛衰を語り、笛の名手だった生前の最後の宴を懐かしんで[中之舞]を舞い、合戦での討ち死にの様子を再現して見せる。そして敵に巡り会えたと仇を討とうとするが、蓮生の弔いを受けてもはや敵ではないと悟り、極楽では共に同じ蓮に生まれる身になろうと述べて消え去る。
◆蓮生(れんしょう・れんせい) 俗名・熊谷直実。武蔵国(現在の埼玉県)の豪族。一ノ谷合戦で平敦盛を討った後出家。 ◆平敦盛(たいらのあつもり) 平清盛の甥で、兄に能『経政』の平経正がいる。一ノ谷合戦で、熊谷直実に討たれる。時に16歳(17歳とも)。五位で官職はなかったので「無官の大夫」と呼ばれていた。おそらく元服直後に都落ちすることになったか。合戦以前の敦盛を語る記録はほとんど存在しない。
この曲は修羅物ではありますが、カケリを舞わず中之舞(もしくは黄鐘早舞、男舞)を舞う優雅な曲です。この曲の元になった『平家物語』敦盛最期のことを簡単に書くと…。 先陣を切ったものの名のある大将首を挙げられなかった直実は焦っていた。すると、前方に美々しい鎧兜を身につけた武者が沖の方へ馬を進めていくのが見える。 あれは大将軍とこそ見参らせ候へ。まさなうも敵に後ろを見せさせ給ふものかな。返させ給へ と直実が呼びかけると、武者は引き返してきた。2人は馬を並べて戦いますが、地に落ちたところで直実が押さえつけて首を落とそうと顔を見ると、息子・小太郎と同じほどの年齢ではないか。(『平家物語絵巻』の左上の部分) そもそもいかなる人にてましまし候ぞ。名乗らせ給へ。助け参らせん 先に息子が負傷しただけでも千々に乱れた我が心。その際の気持ちを思い出し、そして目の前の公達の父親のことに想いが至り、とても手をかけることはできない直実。しかし若武者は答えます。 ただ疾々頸をとれ 振り返ると味方の軍勢が続いてきた。味方の手前、もはや逃すことはできない。直実は泣く泣く若武者の首を打ち落とします。その際の直実の言葉が あはれ、弓矢とる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生まれずは、何とてかかる憂き目をば見るべき。情けなううち奉るものかな 武士たる我が身を恨む言葉でした。この若武者は、腰に身につけていた「小枝」という笛より、大夫平敦盛と分かったといいます。泣く泣く敦盛を討ったことは、直実が前から持っていた無常感を更に強いものとしました。そのため、後に浄土宗の開祖・法然の元で出家して蓮生と名乗るのです。 ところで、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』には、直実の出家について全く違う説が載っています。上の【登場人物】に書いたように直実は、幼いころに父を亡くし叔父の久下直光に養われたのですが、直実が都で平知盛に仕えている間に、直光が所領の熊谷郷を横領してしまったのでした。それ以来、直光との所領争いは長く続きます。一ノ谷で直実が危険な先陣を争ってまで求め、また、逃げる敦盛を呼び掛けてまで大将と戦おうとしたのは、ただ名誉だけのためではなく、熊谷郷の所領権を頼朝に認めてもらうためでもありました。 そして建久3年(1192)、所領争いについに将軍頼朝の裁決を仰ぐことになったのですが、直実は武勇はあっても口下手だったらしく、形勢は不利になる一方。ついに頼朝側近の梶原景時に向かって「景時が直光をひいきして将軍に申し上げている。これでは俺に勝ち目はない。こんなものは無用だ」と叫び、証拠の文章を破り捨て席を蹴り、侍所で髻を切って、そのまま出奔してしまったそうなのです。 こう見ると、敦盛の死に世の無常を感じて出家した、というのとは随分イメージが変わってきますが、『吾妻鏡』もまた鎌倉時代後期の編纂物で、説話や伝承の類が多く採られていて完全に信用がおけるものではないそうです。その1つの証拠に、『熊谷家文書』と呼ばれる一群の文書の中に、『吾妻鏡』が出家したとする建久3年の前年に「地頭僧蓮生」と署名されたものが存在します。とすると、出家したのは建久2年(1191)以前に直実は出家したことになります。 直実の出家に関しては、結局はっきりしたことは分かりません。ただ彼が法然の弟子となり、念仏往生を遂げたことは史実のようです。私は、出家の直接の原因は所領争いにあったのかもしれませんが、出家後、法然の弟子となり切に念仏往生を願い遂げたのは、元々敦盛を手にかけたことなどで、合戦の矛盾を感じていたからこそではないだろうか、と思います。敦盛最期の話と所領争いの話とは、熊谷直実という人物の中では決して矛盾することではないのです。 同じ蓮の蓮生法師。敵にてはなかりけり。跡弔ひて賜び給へ 出家した蓮生の弔いを受けて、敦盛の魂もまた敵も味方もない極楽へと往生したに違いない、と私は思います。これはあまりに綺麗事でしょうか。 (2002/11/25) |
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