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能『船弁慶』後
能『船弁慶』後

■あらすじ

 平家が滅びた後、兄の源頼朝と不仲になった源義経は、嫌疑を晴らすべく西国落ちを決意する。摂津国尼崎大物浦まで一行が到着したとき、弁慶の薦めを容れて静御前を都へ帰すことになる。弁慶は静の宿を訪ねてこの由を伝えるが、静は弁慶の一存から来たものと誤解し、義経に直訴する。しかし、義経からも重ねて都へ帰る由を伝えられ、静は沈む心を引き立たせ、やむなく別離の[中之舞]を舞う。最後には、烏帽子を脱ぎ捨てて静は帰っていく。<中入>

 義経一行が船出すると俄かに風が荒れ始め、平知盛を始めとする平家の怨霊たちが波間に現れ、義経一行を海に沈めようと[舞働]を舞って襲い掛かってくるが、弁慶が五大明王に祈ると遠ざかり、波間に消えて失せていった。
→能『船弁慶』の詞章はこちら

■ゆげひ的雑感

 前シテの優美な舞。後シテの豪快な長刀さばき。前後の対比が鮮やかで、能鑑賞入門なんかによく使われる能です。

 前場の主題は、もちろん静御前と義経の別れです。しかし、鎌倉幕府の史書『吾妻鏡』によると、実際に義経と静が別れたのは、義経が大物浦から西国に行こうとしたところ、嵐に会い無理だったので(この史実が『船弁慶』後場のモデルですね)、今度は大峯山に逃げようとしたところ、そこが女人禁制だったために仕方なく別れたとあります。ですから吉野山中であって大物浦での別れは能作者のフィクションということになります。本来、吉野であった別れを大物浦に敢えて変えた理由は、前文で書いた通り、静御前と平知盛の対比をさせるためでしょう。

 史実では別れた後、静御前は頼朝の手の者に捕らえられ、母親の磯禅師と共に鎌倉に送られます。母親の磯禅師が付いてきていることから、十代後半ぐらいの若さだったと思われます。そして義経の行方を尋問されますが、この時は「詳らかならず」ということで決着がつきます。答えなかったと考えるとなかなか面白いのですが、単に別れた後の動向は知らなかったと考える方が自然かもしれません。

 その後、鶴岡八幡宮で舞うように、頼朝から命令を受けますが、病気と称して固辞します。しかし再三の命令により舞いますが、その時、

 吉野山 峯の白雪ふみ分けて 入りにし人の跡ぞ恋しき
 しづやしづ しづのおだまき繰り返し 昔を今になすよしもがな

と別離した義経のことを恋い慕う歌を詠い、頼朝を激怒させたことは有名です。この時は、頼朝の妻・北条政子のとりなしで事なきを得ています。

 また若い御家人数人と酒宴をなす記事もあります。この辺りから考えて、静御前は罪人扱いではなく参考人扱いだったのでしょう。この時、御家人の1人、梶原景茂が酔った勢いで静御前に「艶言を通ず」とありますが、静御前はきっぱりとはね除けます。

 静御前は義経と別れた際に身ごもっていたようで、鎌倉で子どもを生みます。男の子でした。女の子ならば一緒に京都に帰すことになっていましたが、義経の後継となりえるということで殺されてしまいます。京都へ戻った後のことははっきりしません。

 一方、後シテの平知盛ですが、彼は清盛の三男で平家の副将でした。『平家物語』においては常に運命を正しく見据え、平家の命運が尽きようとしていることを認識しながら、それでも余裕さえ持って精一杯戦う男として登場します。壇ノ浦合戦の際、女房たちに「中納言殿、軍はいかに」と問われたところ、「めづらしき東男をこそ、ご覧ぜられ候はんずらめ」と言って「からからと」笑ったといいます。運命を見届けたものの爽快さがあります。

 また同時に情の深い様も『平家物語』では語られています。平家が木曾義仲の軍に攻められて都落ちをする際、大番役(御所の警備)のために京都へ上洛していた東国武士たちについて、帰しても源氏方となって攻めあがってくるだろうから斬ってしまおうとしたことがありました。

 その時、知盛は「御運だに尽きさせ給ぎなば、これら百人千人が頸を斬らせ給ひたりとも、世を取らせ給はん事難かるべし。故郷には妻子所従等いかに歎き悲しみ候はん」と、彼らを斬っても勢力挽回に何の足しにもならないことを説き、そして残された妻子たちのことを気遣う発言をして、斬るのを留めさせています。命を救われた東国武士たちは感激し、平家が崇める安徳天皇の護衛に加わることを願い出ましたが、知盛はそれをも留め、妻子たちのところに帰したのでした。

 また一ノ谷合戦では、息子・知章が組み合っていたのを見殺しにしてしまったことを歎いて兄・宗盛に語ります。その言葉には一辺の自己弁護も無く、ただただ我が身を恥じています。

 さらにその際、船に馬が乗れなかったので、陸に帰すことになるのですが、部下がどうせ源氏のものになるのならば、と弓で射殺そうとします。しかし、知盛は「誰の物になってもかまわぬ。私の命を助けたものを。射るべきではない」といって止めさせます。その心が馬にも通じたのか、しばらくは船から離れようともせず、陸についてもニ三度船の方を向いては嘶いたといいます。

 知盛は最期、「見るべきほどの事は見つ」といって身を投げます。平家の滅亡を見取ったという宣言です。そこには死に向かう悲壮さはなく、それどころか清々しさまであります。

 その清々しい知盛がなぜ怨霊として能『船弁慶』では登場するのでしょう。

 『船弁慶』の前シテの静御前と、後シテの平知盛の怨霊ってのは、全く異なる人物ですが、最近、やはり後シテはある意味の前シテの変化かな、と思う様になりました。どちらも感情自体には違いがありますが、義経に強い執着心を持っていて、それを舞や謡に表さなければならないこと、そして弁慶に邪魔されるところなどがそっくりです。

 前シテの静御前は、神泉苑で舞って天候神=龍神を感応させたという伝承の持ち主です。その彼女が同行しなかったからこそ海は荒れ、知盛が登場するのです。『船弁慶』の前半には「波風も静かを留め給ふかと」という謡がありますが、静御前がいれば「波風」は「静」まって知盛は登場できないのです。水に関して表裏を為す役なんですね。

 しかし、義経一行は「静」を陸に「留め」ます。それは息子・知章を陸に留めたために死なせてしまった知盛の彷徨う霊と感応しました。海面は荒れ立ち、静の悲しみをも背負った知盛が波間から現れます。…前シテを舞う子と、船弁慶への思いを話しているうちに、こんなイメージが沸き始めました。

 これは私のあまりに勝手な解釈かもしれません。実際『船弁慶』って前後の対比が派手ですけど、前後の繋がりが薄く感じられて、初めは能2つに分割しても行けると思ってたのです。でも、やっぱりそうではないのかもしれない、って思うようになって、今まで以上に面白みが増えた曲です。

(2003/01/07)

DATA

観世・金春・宝生・金剛・喜多

作者:観世信光
分類:五番目物、猛将物
季節:冬十一月
場所:摂津国尼崎大物浦→大物浦海上
原典:特になし
太鼓:あり

登場人物
前シテ:静御前
後シテ:平知盛の怨霊
子方:源義経
ワキ:武蔵坊弁慶
ワキツレ:義経の従者
アイ:船頭

関連史跡
大物浦
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