『舞台芸術ワークショップ・大阪2005 能楽』の3回目です。天野文雄教授(阪大)の講義が「世阿弥」、武富康之師(シテ方観世流)の実技が「謡稽古2」でした。
天野教授の講義は大学の講義のような形式。私が能が専門ではないものの学生ですし、自分でもかなりマニアックな人間だと思ってますから構わない、というか、むしろ歓迎です。
しかし、このワークショップで初めて能に出会われるような方には正直難しいだろうな~と思わないでもないです。開始前に、少しだけ「ほとんど初心者」と仰る方と少しお話をしましたけれど、その方は「能にいくつも流派があることを始めて知った」なんて仰ってましたから…。
「世阿弥」は世阿弥の生涯についての話でした。世阿弥(1363?-1443?)は能の大成者で、二代目の観世大夫(大和猿楽の演能グループ観世座の統率者)。能楽の歴史を見るうえで、絶対に外すことのできない人間なのですが、実は生没年すら正確には分からない謎の人物であります。
世阿弥は多くの名前を持っていますが幼名が藤若、通称は三郎、実名・元清。秦氏を称していましたが、父の芸名だった観世が姓のように通用し始めたので、観世三郎と呼ばれていたそうです。世阿弥(正確には世阿弥陀仏)と名乗ったのは40歳前後。老後に出家して、「至翁善芳」という法名もあるそうです。
幼いころから父・観阿弥に英才教育を受け、12歳のときの京都・今熊野神社での猿楽能が将軍・足利義満の目に留まり、以後寵愛を受けます。義満の世阿弥寵愛を語るエピソードには、義満の勘気を触れて東国を流浪していた連歌師の琳阿弥という人物が、自作の謡を世阿弥に謡ってもらうことで許されたなんて話があるほどです。
20歳ごろに観阿弥が突然死に、世阿弥は観世大夫を継ぎますが、近江猿楽の犬王というライバルが現れ、しばらく苦境に陥ります。しかし、それまでの大和猿楽の伝統だった「物まね中心の能」から、犬王の長所を取り入れた「歌舞中心の能」への方向転換が成功。世阿弥は再び将軍の愛顧を手にしました。このころ『風姿花伝』も書き始められます。
45歳のころ、最大の後援者であった義満が急逝。将軍・足利義持は田楽の増阿弥を重用しますが、世阿弥も負けずとさらに増阿弥の能の長所を取り入れるという変化に成功。60歳前後で出家したのをきっかけに、観世大夫を長男の観世元雅に譲りますが、引退はせず、演能にますます活躍。次男の観世七郎元能や甥の観世三郎元重などの成長で、観世座はますます発展したといいます。このころ、『至花道』や『花鏡』といった能楽論を著したり、多くの能を作ったとされています。
しかし65歳ごろ、新しく将軍となった足利義教は甥の元重(音阿弥)を後援、本家筋の世阿弥父子には圧迫が加えられ、そんな中、次男・元能は父の芸談を『申楽談儀』としてまとめた後に出家遁世し、長男・元雅もまた伊勢で客死。世阿弥の後嗣は絶えてしまいます。さらに原因はよく分からないものの、世阿弥自身もまた佐渡に配流。その後、帰京したかどうかははっきり分かっていません。81歳で没したという伝承が残るのみだといいます。
世阿弥の系統が途絶えた後、観世大夫は元重が継ぎ、今の観世家も世阿弥の子孫ではなく、音阿弥の系統となっています。なんだか能の大成者としての栄光を持ちつつも、晩年、不遇の中に亡くなったことが痛ましいですね。
武富康之師による「謡稽古2」は、前回のおさらいからが終わったと思うと、すぐ『高砂』のキリ「千秋楽は民を撫で…」の稽古、さらに『鶴亀』の「千代の例の数々に…」と大ノリの練習。前回の赤松禎英師の時の稽古よりも、スピードがかなり速いように感じました。それでいて武富師曰く「これからもっとスピードアップします」(笑)
非経験者の方には少々キツいのでは?と感じましたが、それに併せて、自分の稽古用に限るならばテープに録音する許可は下りたので、そうやって自主稽古に励んで追いつくしかないのでしょう。私も『巴園』のお稽古に入ったら、テープ持参して録音しようかな…。
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