セリフ主体の千本ゑんま堂大念仏狂言
もうひと月も経っていますが、ゴールデンウイークに京都の千本ゑんま堂へ大念仏狂言を見てきました。京都には「念仏狂言」と呼ばれる民俗芸能の狂言が数箇所伝わっていますが、その一つです。
前に見た壬生狂言は鉦と太鼓の「ガンデンデン」と呼ばれる囃子に乗って、無言で演じられるパントマイム劇でしたが、ゑんま堂狂言はセリフ主体で、囃子は部分々々に奏されました。全員が面をかけて演じるのは、壬生狂言と共通です。
私が見たのは最終日の夜で、演じられたのは《牡丹獅子》《道成寺》《千人切》の3番。
《牡丹獅子》は大名が大切にしている牡丹の花を獅子が現れて食い散らかすので、太郎冠者に命じて生け取りにしようとしますが、冠者は失敗して仕方なく獅子の真似をしていたところ、主に見付かり追い込まれるという話。
《道成寺》は写真を載せたものですが、話の展開は能とほぼ同じです。しかし、能でいうなら、アイとワキツレを兼ねたような小坊主が、シテの白拍子を見ておー、えらい別嬪じゃと言ったり、鬼の姿になった後シテに小坊主が追い掛け回されたりと、しっかり「狂言」でした。
最後の《千人切》は出演者全員が、主役の「為朝」(源為朝?)という武士に金剛杖で打たれ、倒れて見せるというもの。昔、千本ゑんま堂の付近で暴れていた鬼たちが、金剛杖によって良心を取り戻したという故事に由来するとされる儀式です。
ゑんま堂狂言の最終日に必ず行われるものだそうで、発生を考える上で興味深いものだな、と感じました。お祭りの最後らしい、出演者の皆さんの清々しい表情が印象深かったです。(この演目に限り、ほとんどの演者が面をつけない)
民俗芸能らしい、素人の方々が精一杯演じてらっしゃるのが、見ていて楽しい千本ゑんま堂狂言でした。
はじめまして。以前から拝読させていただいてました。
ちょうどこの春、壬生狂言で『道成寺』を見たので嬉しくなって書き込んでます^-^
不思議な世界ですよね。ずっと単調な音がなっている小さな舞台で、せりふは無くかなりクセのある動き。けれどその動きの意味が少しずつわかってくるとおもしろくなる。古いお寺の上ということもあってか、時代をタイムスリップしたような気持ちでした。
民俗芸能の持つパワーはすごいですね。ちょっと艶かしい動きや下品に見える動きもあり、でももともと田楽や猿楽はこうゆうものだったのかもしれないな、と思いました。
今度は千本ゑんま堂へ大念仏狂言を見に行きたいなと思いました。
こんばんは
完全に隠居されてもう表に出て来られないのではないか、とさびしい想いでおりましたが、何気にゆげひさんじゃないですかーっ(喜)^^
壬生狂言、初めて聞きました。民族芸能やお祭りに疎いのですが(新興住宅地育ち)お能の演目が普通に民族芸能でされている、というのは不思議なものですね。大昔には何らかの繋がりがあったものなのでしょうか。
稽古を重ねた民族芸能、と言えば徳島の阿波踊りを思い出しました。母の田舎なのですが、仕事後、学校後、夜な夜な集まって365日練習するのだそうです。突然参加の連は稽古をしてなかったりしますが、だいたいがや○○さんもちょっとグレた若者まで練習しまくっていたりします。いったいなぜそこまで情熱を注げるのか。。。?そういう場所で育っていないとなかなか理解できないのですが、日本人はやはり根っから芸能が好きなんでしょうね^^
★ゆきこさん、yukinoさん
壬生つながりで『壬生義士伝』(ちょっと違う?)を再読していた「ようこ」でございます。
お能が先か民俗芸能が先か分からなくなってしまいますがどちらを見ても、大きくは根っこのところでつながっているんだな、と感じます(こんな大雑把なことを言っているとお師匠に「能楽の起源は云々…」とお説教?されそうですが)
隠居してしまったお師匠こと柏木ゆげひもたまにこのように登場させていただきますが、なかなか多忙でコメントのお返事を差し上げるところまで手が回らないこともあるかと思います。どうぞご了承の程、お願い申し上げます。