「大鼓」と「太鼓」は間違えやすい!?
先日、大鼓の稽古に行く前に、この日記を読んでいる知人から言われました。
太鼓(たいこ)の稽古に行くんだよね?
私がお稽古を受けているのは「太鼓(たいこ)」ではありません。「大鼓(おおつづみ)」です。「ヽ」は要りません。
「大鼓」は左の膝の上に横たえて右手で打つ楽器です。能の場合、基本的に小鼓と対応して演奏されるもので、小鼓より大きいから「大鼓」なんですね。
一方、「太鼓」は基本的に撥を使って打ち鳴らす楽器です。能で使われるのは、特に締太鼓といわれる種類。どちらも能や歌舞伎で使われています。太鼓のほうは落語囃子でも使われますね。
まあ、一般的にいって大鼓より太鼓の方が名前が通っていますから、仕方はないと思いますけれどね。辞書で引いても「太鼓」の後につく言葉(「太鼓橋」「太鼓腹」「太鼓結び」「太鼓持ち」…など)はたくさん載ってますが、大鼓の方は「大鼓方」一語だけでした。しかも能楽用語ですし(^^;)
大学能楽部でパンフレット作成担当をしていた時、印刷屋さんから、文中の「大鼓」が全部、丁寧にも「太鼓」に直されていたことがありました。印刷屋さんとしては気を聞かせてくださったのでしょうけれど、全部朱筆で訂正して送り返させてもらいました。
しかし、最近手に入れた大阪・大槻能楽堂の会報『おもて』95号の、「能会トピックス『秋の褒賞と受勲』」の欄で、旭日双光章 囃子方“太鼓”大倉流 山本孝と書いてあったのは、少し残念です。山本孝先生は「大鼓方」! この会報、他にも小鼓方大倉流の大倉源次郎師のお名前が「大蔵源次郎」、狂言方大蔵流の茂山童司師が「志賀山童司」となっていたり…。
能楽堂の会報としては、ちょっとお粗末。校正の時間が取れなかったのでしょうか。
太鼓と大鼓、間違っていること、を知らない方も多いですね。私の菩提寺は「祇劫寺」といいますが、役場や公の案内書にはよく「祇却寺」と書かれるんです。
名乗りもせずに失礼しました。私は、寛文事件で名がある「伊達安芸宗重公」の家中を務めた家で、その能舞台のワキ方の春藤流の小謡を、謡い継いでいる「鉢の木会」の一員です。もちろんお能には、大きい関心がありますが、すでにここではその動きはなくなりました。となり登米市では、私たちの主人方にもなる大蔵流の保存会が、能舞台も持って、活躍しております。
来年の寒稽古には、何人来てくれるのか、もう若い人たちは興味が全くないみたいです。さびしいことですが。
★三神貞夫さん
コメントありがとうございます。
似た漢字は、間違っていることに気付かずに
済ましてしまうこともあり、難しいですね。
私自身も能の小書「膝行留」を「脇行留」と
書いてしまったことがあるので反省すべき点はありますが。
仙台の伊達家は、支藩も含めて大変能楽が盛んだったらしいですね。
岩波講座『能・狂言』の「能楽の歴史」にも、
「仙台藩には…(中略)…『一門』と呼ばれ、万石以上を領して支藩を
形成していた諸家があったが、その支藩も本藩にならって能楽を
重視していた。…(中略)…伊達安芸の家たる桶谷伊達の城には
能舞台もあり、二十八人もの家来が乱舞を家業としていた…」
(第五章「地方諸藩の能楽」仙台藩)
とありますね。
ワキ方春藤流は、玄人の能楽師としては断絶してしまった流派ですが、
小謡を伝えている方もいらっしゃるのですね。
「大蔵流」とおっしゃるのも、狂言の大蔵流のことではなくて、
仙台藩で重用されていた金春座シテ方の大蔵大夫の流派のことでしょうか。
同じく岩波講座『能・狂言』の仙台藩の項に
「四十年間藩主だった五代の吉村は、名君の評価も高いが、綱村に劣らず
能を好んだ。…(中略)…先代以上に大蔵大夫家を後援し、
(引用者補:大蔵求馬)経通に金春大蔵派を称せしめ、
演目を増加させたりもしている。(引用者補:仙台藩能大夫の)
桜井が金春大夫系から大蔵大夫系に移ったのも吉村の意志に
よることだったらしい。大蔵からは〈関寺小町〉まで相伝されていた」
http://www.tohoku-epco.co.jp/shiro/07_01/05butai/index.html
のようなページも見つけました。能にはいろいろな地方色があるのですね。
たびたびメールをさし上げる「春藤流」の三神貞夫です。
別欄にもメールしていますが、仙台出身の東京芸大生さんが、私たちの伝承団体に的を絞って、博士論文の研究テーマとして、去年夏にここにきていただきました。今年も2度目の交歓会として、さる3月に宮教大生とともに来て、それが河北新報の地方版に掲載されました。
その記事を見た、私たちの主家のあった涌谷町のある84才になる女性からの電話がありました。結局はその女性宅に参上することになり、その三浦家では、大蔵流の師匠を代々務められた家ということでした。「文化年」の木版刷りの「謡曲本」が、4曲入りが35冊もありました。その家付きの女性は、大蔵流謡曲を親や祖父の背中で聞いて成人した方でした。
謡曲に対する関心は、当然のことでしたね。話は尽きる事無く続きましたが、爛満の桜の午後もかなり回ったので、私たちは御礼の意味もあって、「鞍馬天狗」の小謡いを謡いあげて、お別れしました。これで終わりではなく、今度は我が家に来てくれるかもしれません。そんな心温まる、謡いを媒介した交流が始まっています。
春藤流の三神貞夫が、またメールします。学芸大大学院生さんたちとの交歓会は、先メールにあった、涌谷の大蔵流の師匠家である「三浦まさ子さん宅」で、涌谷大蔵流、大貫春藤流と学芸大生側4人を含めて、15人の大勢の謡曲談議になりました。お互いの謡曲も謡い合い、話は百年の知己を得たような楽しさでした。
私たちの大貫と涌谷は家中と主家のあるつながりですから、昔からの姻戚関係も多く、暖かい有意義な半日を過ごしたことになります。
旧墓地からの始めての発見もありました。こんな法名の家の墓地でした。「頓入謡悟禅定門」「渓真鼓秀庵妙栄善女」とは、どんな生涯の人生だったのでしようか。私にはこの祖父孫とも「能謡曲」に深く関係した家であったとみていますが、皆さんのご意見を拝見したいですね。