『花よりも花の如く』に狂言《月見座頭》が登場
こんにちは、柏木ゆげひです。能楽師を主人公にしたコミック『花よりも花の如く』。その最新刊6巻をようやく読みました。
全体を通して色々と感じることはあるのですが、私は今回、主人公の榊原憲人さんが、狂言方の宮本芳年さんにいわれて見に行った狂言《月見座頭》を特に取り上げてみたいと思います。
というのは《月見座頭》は私の特に好きな狂言なのです。過去にセクターエイティエイトが主催している「リクエスト狂言」で希望を出したところ、茂山千之丞師に演じていただけるという、とてもありがたいこともありました。狂言で一曲、希望曲を出すなら《月見座頭》しかなく、千五郎家の中で演者の希望を出せるならば千之丞師しかいない、と思っていただけに。
客席までもが秋夜の野となった《月見座頭》
ほかに今まで見た《月見座頭》で、何といっても忘れられないのが、善竹忠一郎師のもの。最初、野で虫の音に聞き入る座頭の風情が絶妙で、本当に虫の音が聞こえるんじゃないかと感じるほどでした。客席までもが秋夜の野となった、というのは言い過ぎなのでしょうが、あんな舞台を見ることができるから、能・狂言が好きなんだ、と、今でも折に触れて思い返す舞台でした。
そこまで高めた舞台を、最後に敢えて壊す。そこが《月見座頭》の真骨頂で。そこに「人間の二面性を見せる」と解説をつけるのは、小賢しい屁理屈ではないかと思うのです。そんな理屈に終わるものではなくて、もっと大きな衝撃だと思うのです。少なくとも、私の《月見座頭》初見はそうでした。
《月見座頭》一曲だけを見ると座頭が可哀想な気もしますが、他の座頭狂言では、むしろ富裕で強欲な座頭が悪役のように登場することも少なくありません。実際に、江戸時代には金銭貸付業を行って武士や町人から暴利を貪る座頭もいて、社会問題となった時代もあるといいます。
《月見座頭》の作品理解と、他の座頭狂言のことや歴史的背景は必ずしも関係ないかもしれませんけれど、舞台芸能で大切なことは、きちんと理屈で説明できることではなく、舞台として面白いか、結局はそこに繋がらねばならないと思うのです。
座頭の出立と狂言の家
ところで、その『花よりも花の如く』に登場した狂言《月見座頭》。シテ座頭は長袴に頭巾をかぶった、座頭より位の高い「勾当」の出立で描かれていましたが、実はこの出立で演じるのは、山本東次郎家だけなのです。
私が見た善竹忠一郎師や茂山千之丞師は、狂言袴に十徳・座頭頭巾の座頭出立で演じてらっしゃいました。ある特定の家にモデルが限定されるような要素でも、忠実に書いてしまうのが、成田美名子さんらしいなぁ…と思いながら読んでいました(^^;)
追記
後で知ったことですが、最近は和泉流の野村万作家でも《月見座頭》を演じられるようです。大蔵流のものとは違う、鷺流の台本を元にして復曲をされたものとのこと。その座頭の出立がどうなのかは未確認です。
はじめまして
いつも能鑑賞の参考にさせていただいております。
今回の「月見座頭」の件「大蔵流にしかない」と
言う部分について質問させてください。
この曲は野村万作家でもしばしば上演されており、
私も何回か拝見しています。
(2006年の「狂言劇場」でも取り上げられています)
「狂言ハンドブック」(三省堂)にも大蔵流限定曲として
表示されていますが、説明文最後に「野村万作が
上演を重ねている」とあります(2刷177ページ)。
上演されていてもやはり「大蔵流限定曲」という
表現になるのでしょうか?
前から気になっていたことなのでぜひ教えていただけ
ればと思います。
よろしくお願いします。
★かのこさん
初めまして。私も「かのこの劇場メモ」を時々、
拝見させていただいていますので、コメントいただけて光栄です。
さて、〈月見座頭〉と野村万作師の件ですが、
『狂言三人三様』で、試演をなさっている旨を
読んだ覚えがあります。
『狂言ハンドブック』の立場はわかりませんが、
私は和泉流としては伝承された台本がないのを
野村万作家による"試演"だととらえているために
「大蔵流にしかない狂言」という表記をしました。
新作能・復曲能でも、何度も上演が重ねられている
曲もありますが、それらが流儀の曲としてはなかなか
公認されていないようであることも、参考にしています。
ちなみに厳密にいうと「〈月見座頭〉が大蔵流にしかない」
というのは間違いで、鷺流にも〈月見座頭〉があって、
そちらの方が古いそうです。結末も、犬に追われるものだそうで、
ずいぶん印象の違うものだそうです。
回答ありがとうございます。
なるほど「試演」という感じなのですね。
まあ個人的には万作師の思い入れとか見た印象からすると
「試演」というのはちょっと軽い感じがしなくもない
かなあと思ったりしますが、ぜひ山本家のものも参考に
拝見してみたいと思いました。