仕舞と小舞で《海士/海人》競演―「新春 能狂言の世界」

新春 能狂言の世界

能と狂言の催しで初めて司会を担当

先日、1月25日(月)に芦屋能舞台で催された「新春 能狂言の世界」という会で、私、初めて司会と解説を担当させていただきました。ありがとうございます。

小さな催しではありましたが、企画された長山耕三師が最後に

以前から気になっていた東京の役者である善竹大二郎さんが関西にいらっしゃるので、身近な関西の善竹隆平さん、藤井丈雄さん、上野朝彦さん、伊原昇さんにお力添えいただいて企画しました

と仰った通り、耕三師の自分が良いと思うものを人にも知って欲しいという気持ちと思いが端々から感じられる、とても素敵で濃い会でした。

なお、芦屋能舞台さん自身によるレポートがfacebookにあがっていますので、そちらも併せてご覧ください。

チラシに書かれていたのは狂言《柿山伏》と仕舞《玉之段》のみでしたが、実際の流れは以下のような形でした。(敬称略)

新春 能狂言の世界

2016年1月25日(月)17時半~。於・芦屋能舞台(兵庫県芦屋市)

★観世流連吟《高砂-待謡》藤井丈雄・上野朝彦・伊原昇
★観世流仕舞《海士-玉之段》シテ:長山耕三 地謡:藤井丈雄・上野朝彦・伊原昇
★大蔵流小舞《海人》シテ:善竹大二郎(地謡なし)
★大蔵流狂言《柿山伏》シテ山伏:善竹大二郎、アド畑主:善竹隆平
★観世流連吟《求塚-ロンギ》長山耕三・藤井丈雄・上野朝彦
★質疑応答

仕舞《海士-玉之段》と小舞《海人》の舞い比べ

中でも面白かったのが仕舞と小舞の舞い比べ。

《海人》の小舞は狂言《寝音曲》の中で舞うことがあるそうです。

ただし大蔵流の《寝音曲》で通常舞われるのは《放下僧》の小舞と決まっており、能で《放下僧》が上演されるなど他の番組と重なった場合に、替えとして《海人》が舞われる習いとなっているそうです。

しかし、現代では、そもそも能《放下僧》が上演される際には、狂言《寝音曲》を演じることを避ける方が現実的なため、大蔵流の狂言の中で《海人》の小舞が舞われることは、実際にはまずないだろう、とのことでした。

仕舞に続けて小舞が舞われたので、より比較がしやすかったです。小舞《海人》では扇のみを使うのに対して、仕舞《玉之段》を舞われた長山耕三師は、普段ならば、能の小書の時のみに使用される鎌を持って舞うなど、比較がしやすいような工夫もされていました。

小舞《海人》ではかくて竜宮に至りて、宮中を見ればその高さの部分で、ぐっと高く見上げて、続く三十丈の玉塔にと指を折ながら数えるなど、具体的な言葉に当てた振りとなっている型が多い印象。

中でもその他悪魚、鰐の口の部分が最も特徴的でした。というのも、顔の両側に握った拳を持ってきて、大きな鰐(鮫?)の口の様子が表現されるのです。いかにも狂言らしい型だと思います。

そして、地謡なしで、自ら謡いながら、かなり激しい《海人》の小舞を舞われた善竹大二郎師の熱演。それを、直前まで仕舞に出演されていた、シテ方の出演者全員が脇正面に出てきてご覧になっていたことも、温かい場の空気を感じました。

小舞のあとには続けて、狂言《柿山伏》。引き続きの熱演の善竹大二郎師と、クールな畑主を好演される善竹隆平師の対照が楽しく、改めて《柿山伏》の名作っぷりに感じ入りました。

自分自身についての反省点

…と、会自体は素敵だったのですが、私自身については反省点がいろいろです。初めてということを割り引いても、後から見直すと、もっと何とかなったの ではないか、と思うことは多いです。

まず、最初のあたり声が小さかったこと。これは人前で話すときの基本中の基本ですし、少し注意するだけで、直せることのはずなので、今後気を付けたいと思います。

あとは、専門の役者の方々がいる場で話すのだから、と事前の調べものはいろいろして参ったつもりでしたが、それが自分に話術がない分を、マニアックさで埋めるような形になってしまって。これは違うのではないか、と自分なりの反省点。

大切なのは、今回の機会がどういう意味で与えられたのか、自分にどういう役割を求められているのか。その思いを汲み取ることだと、強く感じました。

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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