山伏の総本山、京都・聖護院門跡

聖護院

京都の狂言ゆかりの地めぐり

先日、京都で狂言に関連する地をめぐる機会がありました。行ったのは狂言《因幡堂》《仏師》《鬼瓦》などに登場する因幡薬師堂(平等寺)と、山伏(本山修験宗)の総本山だという聖護院門跡。

聖護院の方は、恥ずかしながら、その存在は今回初めて知りました。八ツ橋の名前としては聞き覚えがありましたが…。

しかし、なんで京都に山伏の総本山の寺があるかな、なんて思っていたら、お寺の方の説明によると、寛治4年(1090)に行われた白河上皇の熊野参詣に際して、先達を務めた増誉という僧侶が「熊野三山検校」という職に任じられて以来の話だとか。

そういえば大学の史料講読の講義で、平安時代末期の右大臣・藤原宗忠の日記『中右記』の熊野参詣記事を読みましたが、その際に読んだ参考文献(たぶん岩波新書『熊野古道』)にも、そんなことが書かれていた覚えが薄っすらと。興味を抱いていないと、印象って薄いものですね(^^;)

山伏に対するイメージ

私の持つ山伏のイメージといえば完全に能か狂言ののみ。天狗物の前シテだとか、いかに悪心深き○○なりとも~と祈るイメージしかありません。実際の様子は全く知りませんから、現役の山伏によるお話はいろいろと興味深かったです。

また門跡寺院というように歴代門主のほとんどは皇族出身であり、また江戸時代には内裏が炎上した際の仮皇居に二度も使用されたともいう、立派な書院がステキでした。まさに時代劇の世界ですね。束帯を着た貴族が伺候していたと想像すると、歴史好きの私にはたまりません。

印象的だったのは、その書院を案内してくださった山伏さんが、電灯を消されて、電灯がなければ、昼間でもこのくらいの明るさですとおっしゃったこと。薄暗い室内を見回して、ハッとしました。たとえ江戸時代から同じ建物が残っていたとしても、現代の私と江戸時代の人では見え方が違うんですね。

連想して思い出したのは、山本東次郎師が書かれていた一文(どの本で読んだのかは失念してしまいました)。今の能楽堂は舞台上のどの場所でもはっきりと電灯に照らされているが、古い寺にあった能舞台で舞台をつとめていた時、狂言座のあたりはあまり日の当たらない、少し薄暗い場所であることを実感した、という話。

そういった条件の下で、能楽の「型」が作られてきたのでしょうから、今とは違う効果もあったのではないかな、と少し想像しました。

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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2件のフィードバック

  1. 水巻 より:

    こんばんは。
    昔の室内の明るさをかんがえてみると、窓ガラスは偉大だと思いました。昔は障子ごし、それ以前は御簾ごし…暗いですね。
    吹き抜けの能舞台などでは、お白洲の照り返し効果を初めて実感した覚えがあります。お白洲に近付くにつれて、ほの白い光がおもてを照らしあげ、細かな表情が見えてくる……これはこれで、美しい景色だと思いました。

  2. 水巻さん、こんにちは。
    面白いのはですね、山伏さんが案内してくださった聖護院の書院、
    障子窓の一部にガラスがはまっているんです。
    江戸時代には超高級だったでしょうに。
    ただ、古いガラスなんで、ちょっと濁りがあるんです。
    ガラスは二枚使われているのですが、片方はある時に
    割れたそうで、大正時代ぐらい?に新しく入れたものだとかで、
    綺麗なものでした。でも、濁っているガラスに味があるので、
    新しいほうはどこか物足りないように思えてくるので不思議です。
    お白洲の照り返し効果。確かにあるかもしれませんね~。
    広いお白州のある野外能舞台での演能も、いつか見てみたいものです。