『藤戸』という能があります。主人公は備前国児島(現在の岡山県倉敷市児島)に住む名もない漁師とその母です。
源平の藤戸合戦(1184年9月)の時、それぞれの陣が海で隔てられていて、簡単には渡れない状態だったのです。そこで戦功をたてようとする佐々木盛綱という武将は、地元の漁師に高価な品を与え、馬で渡ることのできる浅瀬を教えさせました。
そしてある夜。その漁師と2人だけで陣を抜け出し、実際に渡ってみて検証を済ますと盛綱は
「下臈はどこともなき者なれば、また人に語らはれて案内を教えむずらん。我ばかりこそ知らめ」と思いて、かの男を刺し殺し、頸かき斬って捨ててンげり(『平家物語』藤戸)
としたのでした。
能『藤戸』では、この合戦における先陣の功によって盛綱が備前児島を領地として賜り、赴任するところから始まります。新政の初めとして訴えごとがあれば申し出よと領民にお触れを出すと、漁師の母が現れ、罪もない我が子が殺されたことを訴え、我が子を返せと盛綱に迫ります。
盛綱は自らの非を詫びて弔いを約束し漁師の母を帰しますが、弔いの最中に漁師の怨霊が痩せ衰えた姿で現れ、殺された時の苦痛を述べるという能です。漁師の怨霊が手に持った棹を剣と為して、自らの身を刺し貫く演技は何度見ても哀切で、たまりません。
藤戸寺は、聖武天皇(在位724-749)の時代に行基が開創した寺だと伝えられます。その後、荒廃していたのですが、佐々木盛綱が源平両軍の戦没者および漁師の供養を行うために再建、大法要を行った場とされています。
飛び地であった島にその時の経を納め、漁師の供養のための石都婆と建てたとされています。現在、藤戸寺から倉敷川を挟んで向かいにある経ヶ島です。頂上に古びた宝篋印塔(経塚)と六角形の石塔婆(漁塚)が見えました。
藤戸寺から経ヶ島へ渡る橋は「盛綱橋」と名付けられており、橋の上には海を渡る佐々木盛綱の像があります。…能『藤戸』や『平家物語』のすじとしてはどう考えても悪役なのに、地元では英雄のように扱われているのは面白いですね。
倉敷の南の方には現在、干拓地が広がっていますけれど、児島・藤戸のほかにも「~島」といったような、元は海だったことを示す地名が多く残っています。『花よりも花の如く』3巻の巻末に「源平の頃も陸地なら 殺されることはなかったはず」とあるのを読んで思わず行った場所でした。
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明日、京都へ行くので(レコーディングの仕事で)空いた時間に「藤戸」の碑を見に行きたいな・・・と思い、でもどこにあるのか分からなくて調べていたら、楽しく読ませていただきました。
ありがとうございました。(^^)
成田は私のいとこです。
★chaki2さん
初めまして。コメントありがとうございます。
藤戸の碑は、岡山県の倉敷市ですよ~。
京都にいらっしゃる空いた時間に、というのはなかなか
大変ではないかと思いますが(^^;)
成田さんには2~3度はお会いしたことがあります(^^)
成田さんのマンガの1/4スペースに時々、登場されているとの
ことですが、私が持っている成田さんのマンガは
文庫版ばかりで。これならコミックス版を持っていれば、と
思いました(苦笑)