住所:神戸市須磨区須磨寺町1
さて須磨能楽紀行が続きます。一ノ谷から山陽電車とJRの須磨の駅を少し越えて進むと、能『絃上』ゆかりの村上帝社があります。村上帝社については、去年に書いた記事があるので、そちらをご覧下さい。しかし、約1年ぶりに再び須磨を歩いてるんですね。立派な須磨好きです、私 村上帝社を超えて、さらに山陽電車沿いに進むと須磨寺駅に着きます。その改札を出てすぐのところに「平重衡捕われの松」があります。
平重衡は清盛の五男。平家の一門でも「武勇の誉れある御仁」として知られており、生田の森の戦いでは副将軍を勤めていました。しかし源氏の軍勢に敗れ、乳母子と二騎で落ち延びていたところを、梶原源太景季(能『箙』のシテですね)に弓矢に馬が倒され、乳母子にも見捨てられ、切腹しようとしたところを源氏方に生け捕られました。
彼で有名なのは1180年の奈良攻め。平家と対抗する寺院勢力を押さえ込むために出陣したのですが、激しい抵抗にあい仕方なく火を放つのですが、風向きが変わってしまい、東大寺の大仏まで焼け落ちてしまいます。聖武天皇が建立して以来、国家鎮護の象徴だった大仏を焼いてしまったために、平家への世間の感情はさらに悪い方へ向かうのでした。
その一方で個人的にはかなりの好人物だったようで、捕われた後、鎌倉に送られ源頼朝と対面しますが、頼朝は最大限の配慮を持って遇しています。能『千手』(喜多流『千寿』)で描かれる千手前との出会いもこの時のこと。しかしその後、奈良の僧侶たちに引き渡され、大仏を焼いた大悪人として最後の出家の望みも果たされることなく、念仏を唱えながら首を斬られたのでした。
仏教に帰依しながらも、心ならず僧侶を殺戮し寺々を焼き払ってしまった重衡の自責の念を描いたのが、復曲能『重衡』です。暗いテーマの能が結構好きなので、見てみたい一番です(笑)
ところで、この「平重衡捕われの松」から道を真っ直ぐ北へ向かうと須磨寺(福祥寺)があります。源義経が平敦盛の首実験をしたとされる寺で、敦盛塚のほか、敦盛と蓮生(熊谷直実)ゆかりのものがありますが…前行った印象からあまり二度行くほどの価値を感じなかったので今回は飛ばしました(笑) 興味のある方は、3年前に行った時の記事をご覧下さい。
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