今日は『舞台芸術ワークショップ・大阪2005 能楽』の2回目。今回は天野文雄教授(阪大)の講義が「能について」、赤松禎英師(シテ方観世流)の実技が「謡稽古1」でした。
「能について」は能とはいかなる演劇か、という話。仮面劇・音楽劇・歌舞劇など、いろんな捉え方がある能ですが、特に「詩劇」としての捉え方について。
能の詞章を少し読めば、日本を代表する詩であるところの和歌や連歌の影響が強いことは分かりますし、一般的な劇で必要不可欠なはずの「事件」が何もなくて、全体として「めでたさ」や「優雅さ」といった雰囲気を醸し出すだけの曲などがあるのも、能が詩を基本とした劇だから、という意味で納得です。
実は「詩劇」という言葉は、私の大鼓の師匠がお好きな言葉で「能は劇、特に詩劇やねん」とよく仰います。能の囃子、特に大小鼓を稽古していると、七五調が基本の謡(合計12音)に対して、囃子は基本的に八拍子なんですね。その違うリズム?がいかに合わさったり、時に競り合うようになっているのか、という仕組みが分かってくると、能の謡だけを習っていたときよりも、詩(うた)としての面をより強く意識するようになったのは確かです。
まあ、師匠のように「囃子で語る」なんてレベルには到底及びませんけれど…詩としての内容の盛り上がりに応じて、囃子も変化するというのは少し挑戦したい今日この頃です(笑)
話を天野教授の講義に戻しますが、詩劇としての読み方の例として能『熊野』を読みつつ、『熊野』は平家を代表する「バカ殿」であるところの平宗盛が愛妾の熊野を無理やり花見に付きあわせる話だ、という解釈があるのに対して、この能は「春を惜しむ」事こそがテーマで、ワキの平宗盛はその象徴として「この春ばかりの花見の友」として、熊野を返そうとしないのだ、という話をされました。
その解釈自体はなるほどと思いましたし、より原型に近いとされる金春流の詞章を元に天野教授が挙げられた種々の証拠も説得力があるのですけれど…学者としては当然の姿勢とは思いつつも「これが正しい解釈だ!」と押し付けられる感じがするのに少し抵抗感(笑) 結局は劇としての能『熊野』は、結局は実際に演じられている時に感じるものこそ正しいと私は思いますから。
まあ、和歌や連歌の影響の上に成立した能の詞章…それを詩として解釈すべきだというのは至極真っ当な主張だと思いますよ、ホント。
赤松禎英師による「謡稽古1」で、今回やっと実技に。能『高砂』から、ワキとシテの高砂の松に関する問答と、「高砂やこの浦舟に帆を上げて」の待謡です。時間が1時間しかないので、赤松師が謡った後に続いて全員で謡うのですが…基本的に1対1の稽古しか受けたことがない私には、こういう集団稽古は初めてだけに新鮮(笑)
「声ではなくて息で謡うようにしてください」と言われつつも、全くできない私…何年か稽古していたくせに私ってホンマに下手クソ(^^;) 一度だけ赤松師が例として、セリフを息の強弱を変えて謡われたのですが、それだけで全く雰囲気が違って聞こえるのが印象的でした。あんな風に謡えたら、楽しいだろうな~。
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いよいよ謡のお稽古スタートですね!声ではなく息で謡う、ですか?参考にさせていただきたいところですが、難しすぎますわ~(~_~;)息で・・・うーーーん(-"-)<苦悩
声も使うんですけれど、少しの声を強い息に載せて謡うというか…。
『船弁慶』の最後などで、カッコいいと思う謡って、
音階が合っているとか、美しいとかではなくて、
強い息でしっかりと裏が押されている、って感じじゃないですか。
そういうことだと思いますよ。
まあ、言うは易し。するは難しです(^^;)