大鼓の稽古日でした。今回は『松虫』。
この『松虫』という曲は、阿倍野に鳴く松虫の音を慕ってそのまま亡くなった男と、その男の行方を訪ねて同じく露と消えた友人の友情を描いた能です。
『能・狂言事典』に観世流シテ方で文学博士でもある味方健先生の文章が載っているのですが、これが辞典とも思えない美文なので(笑)、稽古していただいた舞囃子部分の文章を引用させていただきます。
そこにくだんの男の亡霊が再び現れ、古今の契り浅からぬ莫逆の友のエピソードをつらね、友情の盃を酌んで舞を舞い、秋の野の絢爛たる虫の音の中に哀情を訴えるような思い出の松虫の音色を聞き分けて偲ぶうち、東の夜がしらむと秋草茫々たる野に男の姿は消えた。あとに残るのはかの友の変身であろうか、かれがれに鳴く松虫の音ばかりであった。
続いてある文章によると、「友」という言葉が繰り返し使われること20回を超えるそうです。また「切々たる思慕哀情の曲」で「恋のような色合いを帯びる」と。『松虫』という曲名自体、友を「待つ虫」という掛け言葉でしょうし。「同性愛の曲」といわれるのもそのためです。
と、こういうイメージなので、情緒的な曲だと思って稽古におもむくと…とんでもない!(^^;) クセ(=能の真ん中ほどにある、謡の聞かせどころ)のあたりはまだゆっくり展開しますが、黄鐘早舞以降はとても激しい曲でした。
舞には途中に「オロシ」といって、テンポを緩めて変化をつける部分があるものなのですが、この『松虫』に限ってはオロシがひとつ無くなります。オロシがない舞とえば『道成寺』の「急之舞」。それだけ急迫した舞だということでしょうか!?
で、舞が終わって。機織り虫(キリギリスの古名)の鳴き声を謡った「きりはたり、ちょう」でテンポが一度緩んだかと思えば、次の行ではすぐ急テンポになり、「我が偲ぶ松虫の、こ~え~」で再び緩む。「り~んりんりん。りんとして。夜の声」と静かに聞かせたかと思うと、次の「冥々た~り~」でこれでもかと打ち込み! そして終曲まで突っ走るかと思えば、最後の一行「虫の音ばかりや。残るらん」は非常に静かに聞かせて終わるのでした。
疲れました(笑) こんな抑揚のある曲だとは思わず…掛け声のかけ過ぎで、声が枯れ気味です。リズム感と記憶力で押してはダメで、しっかり謡を聞かないともったいない曲ですね。結果としては「きりはたり、ちょう」「りんりんりん。りんとして」といった虫の音をイメージするところで情緒を醸し出し、あとは男が執心の怨霊となっている様を表す、といったものなのでしょうか。
ところで、もう少し体力付けないと、カッコいい大鼓には遠いかも(^^;)
(注記。以上のことは、あくまで私が習っている環境では、ということです。それぞれの流派が変わると話が違うってことも多いですので…念のため)
最近のコメント