彦根は思った以上に遠かった
滋賀県の彦根城博物館に行ってきました。博物館のサイトに「幽玄-井伊家伝来・能面と能装束の名品-」という展示しているとあったからです。
滋賀県ってあまり行ったことがないのですが、JRでは京都の次の次の駅が滋賀県の県庁所在地である大津ですから、結構近いなぁと思っていたら…大誤算。大津は確かに近いんですけど、同じ滋賀県でも彦根は大津から結構離れてます。滋賀県って広いんですね(苦笑)
しかも、大阪から乗った新快速が「湖西線経由敦賀行」。彦根は琵琶湖の東側ですから、途中の駅で東側の琵琶湖線を通る列車に乗り換えるつもりだったんですが、途中でつい眠ってしまいまして、気づいたら「比叡山坂本」。彦根とは琵琶湖を挟んで反対側に向かってました(笑)
慌てて引き返して再出発。彦根に着いたのは、大阪を出発して2時間強経った後でした。なんて遠いんだ、彦根!(自分の不注意によるタイムロスは棚上げ)
井伊家歴代の能楽愛好
さて到着した彦根の町。彦根は江戸時代を通じて、譜代大名筆頭であった彦根藩井伊家30万石の城下町でした。江戸時代、能楽(能・狂言)が「武家の式楽」とされていた割に、譜代大名で能楽が盛んだったとされる藩は少ないのですが、彦根藩は例外です。
四代藩主・井伊直興(1656-1717)は、当時の将軍・徳川綱吉が大の能楽好きであったことからか、貞享3年(1686)に55人もの能役者を一斉に召し抱えていますが、これは直興の隠居の時に1人を除いて全員解雇されているそうで、これは一時的なものだったそうです。しかし、さすがは大名。豪快ですね(笑)
能が再び盛んになるのは十代井伊直幸(1731-1789)、十一代井伊直中(1766-1831)の時代。直幸は若い頃から喜多流の宗家に入門して謡や舞などの稽古を修め、また直中は喜多織衛(十世喜多十大夫の甥)ほか多くの能役者を召し抱え、多いときで22家を数えるまでにもなったといいます。彦根城表御殿や江戸上屋敷に能舞台が作られたのも、直中の時代でした。
表御殿能舞台で、藩の公式行事の式楽として初めて行われたのが、文化9年(1812)12月の十二代井伊直亮(1794-1850)家督相続後初めての国入りの祝能でした。直亮も新たに金剛一二郎(二十二世金剛氏成の弟)や狂言の茂山千五郎ら8人の役者を新たに召し抱え、専業役者と常設の能舞台を得て彦根藩の能楽は定例化し、隆盛の時代をむかえます。
幕末の大老として有名な十三代井伊直弼(1815-1860)も能《筑摩江》や狂言《鬼ヶ宿》の新作、また狂言の秘曲《狸腹鼓》の復曲をしています。これら直弼ゆかりの狂言は、今でも茂山千五郎家で演じられています。
藩の演能は、お抱えの専業役者のほか、藩士や町人など素人役者も動員され、時には藩主やその子弟も混じって演じられるという、まさに藩を挙げての行事でした。しかし幕末には政治情勢の激変により、能はほとんど演じられなくなっていきました。
明治になって井伊家十五代で伯爵だった井伊直忠(1883-1947)は、東京の麹町にあった本邸に能舞台を構え、初世梅若万三郎(1868-1946)や二世梅若実(1878-1959)に師事、生涯を能に打ち込み、プロ顔負けの実力だったと言います。
もっとも、麹町の能舞台や井伊家伝来の能道具類は大正12年(1923)の関東大震災にて、残念ながら焼失。井伊家が東京に移り住んでいなかったら…と関西びいな私は思ってしまいます。
しかし、直忠は震災後も東京・角筈の別邸にまた能舞台を作り、また能道具の収集を始めたそうです。そうして収集されたコレクションが、今の彦根城博物館所蔵の能面・能装束の元となっているのですが…震災にもめげず、ますます能にハマりこむなんて、井伊直忠、能マニアの鑑だなと、尊敬と羨望を抱いてしまいました(笑)
能楽における「大名道具」
今年の展示はサイトの説明をよくよく読むと、「『百花繚乱-彦根歴史絵巻ー』と『”ほんもの”との出会い』の2部からなります」とあり、全体としてはあまり多くありませんでした。
しかし、展示されている品はやっぱり良いな~と感じました。中でも能面。私、能面を代表するとされる女面は苦手意識があるんですが、今回、展示されていた是閑吉満作の「小姫」の可愛らしさは少々ノックアウトされてしまいました。
その隣にあった作者不明の「若女」や、加賀前田家伝来品の「朝日」という中年女性の面もなかなか惹かれます。狂言面「祖父」も室町時代の古作だそうで、素朴な「その辺りにいるお爺ちゃん」といった感じの表情が良かったです。「祖父」の面といえば、不自然に顔の歪んだものも多いですから。
装束は、少し変わったものが多かった気がします。蜀江文様ではない、竹の格子があって「壽」の字や鳳凰・菊が配された、日本風のアレンジがなされた翁狩衣だとか。
能《楊貴妃》の役をイメージした展示のところにあった「黒地檜垣に桃と唐団扇文様唐織」も、使うことのできる曲は限られるでしょうが、なかなか面白い絵柄でした。
「展示」とは違いますが、元・表御殿能舞台であったものが復元移築された彦根城博物館能舞台も良かったです。寛政12年(1800)に建てられたといいますから、実に200年以上のもの。この舞台を囲んで、藩主を始めとした彦根藩の面々が能や狂言を楽しんだと思うと、歴史好き&能楽好きの私はワクワクしてしまうのでした。
10月8日の会、ちょっと狙ってたんですが、行かれなくなってしまいました。
『竹生島』『自然居士』とも琵琶湖が舞台、とくに喜多の『竹生島(女体)』は井伊家のお好みで作られた小書ですもんね。
十四世六平太の懐旧譚によれば、かつては上演のたびに井伊家へ断りを入れたのだとか。明治になり、井伊家が観世流に転じたため、断りを入れずに演じたところ、井伊家から「まかりならん」とのお達しが……。そこで喜多サイドからは「井伊様が喜多に戻ってきたら、お断りを入れるようにしましょう」と応じ、以来そのまんまという、落語のような話が載ってました。
比叡山坂本、と言えば、大学院時代三井寺へ「投扇興(とうせんきょう)」や「聞香」の会におじゃましたことがありますわ。帰りに京阪坂本駅の踏切で、線路のくぼみに足を取られて思いっきりこけましたっけ。<あほ
彦根城博物館能舞台は、よく立命館大学が使っていましたよ。
ちなみに、井伊文子さんのお孫さんは私の大学院のゼミの後輩です。(^^;)
★寂昭法師さん
あら、10月8日の彦根城能、いらっしゃるとものだとばかり思ってました。
『竹生島』はともかく、『自然居士』が琵琶湖を舞台にしているのは
失念していました。間違って行ってしまった湖西線にて「唐崎」駅があった時、
「志賀唐崎の一つ松」と『自然居士』の一節を口走ったというのに(笑)
『竹生島』の「女体」の小書も井伊家ゆかりの小書なんですね。
殿様に断りを入れて演じるなんて、さすがは元式楽ですね。
梅若に転じたのは直忠のほうでしょうに、殿様は殿様なんですね。
★とりあさん
比叡山坂本で気づいたときには、うわー乗り換えそこねた!と
大慌てでしたので、駅名のチェックだけで、どういうところであるのか
周囲のことを考える余裕は何もありませんでした(笑)
地図で見ると、三井寺ってあちらの方なんですね。
うーん、今まで「琵琶湖周辺のどこか」というテキトーな概念で
存在していた三井寺の位置がはっきりしてきました。
彦根城博物館能舞台といえば、滋賀県立大学能楽部さんのイメージです。
何せ彦根にある大学ですし。大学創立と同じ1995年に出来た若い部だそうで、
とっても精力的に活動されています。
井伊文子さん…直忠の息子で、
彦根市長を9期つとめた井伊直愛さんの奥様で、随筆家・歌人、ですか。
琉球王家のご出身なんですね。うーん、知らないことが多いです。
3日付けの記事を削除されたご様子ですので、こちらにコメントさせていただきます。お赦しくださいませ。
千三郎さんの件はともかく、千五郎家の方向性と芸風は…とのご意見、私も同感です。狂言師はおられても、狂言方能楽師はと申せば誠に心寒い感が致します。
3日夕刊の朝日新聞のインタビューで、茂山狂言会を前に千作師は「…異分野挑戦もええが本筋をおろそかにしてはあきません。…」とお話しされています。
ともすれば本筋が疎かになりがちな現況の方が、千三郎さんの騒動よりも深刻な問題ではと思ってしまいます。
★千秋万歳さん
コメントありがとうございます。
数年前に拝見した茂山千作師の間語『姨捨』。
あれが忘れられません。凄まじいまでの迫力で。
まさに「狂言方」とはこうなんだ、と思い知りました。
それだけに。
多くは申しませんが。