五条天神

五条天神

住所:京都市下京区西洞院通松原下ル天神前町

 『橋弁慶』は何度も素謡で謡った思い出深い曲です。本を見ない素謡だったので、必死で覚えました(笑) 謡の稽古を受けなくなって1年半ほど経ちますが、『橋弁慶』ならまだ諳んじられる気がします。

 能『橋弁慶』のあらすじを書くと、最初弁慶が「我宿願の子細あって。五条の天神へ。丑の刻詣を仕り候」と言います。すると従者は最近途中の五条橋で謎の少年が人を斬りまわっているからと止めますが、弁慶は「聞き逃げは無念なり」と逆に討ち取る決心をして橋に向かいます。そして有名な牛若丸と弁慶の勝負の末、弁慶は敗れて牛若の部下になる、というものです。

 その「五条の天神」が上の写真の神社。社伝によると、延暦13年(794)の桓武天皇による平安遷都にあたり、大和国宇陀郡から天神を勧請したのが始まり。古くは「天使社」「天使の宮」と呼ばれていたそうですが、後鳥羽天皇(在位1183-1198)の時代に「五条天神宮」と名を改められたといいます。


松原通りの....

 天神といえば普通は菅原道真(845-903)のことですが、この神社は違います。神社が造られたのが道真の死以前ですし。桓武天皇には中国の神である「昊天」を祭ったという記録もありますから、その関係かもしれませんね。

 住所を見れば分かるように、五条天神は松原通という通りにありますけれど、今の松原通こそが元の五条通なのです。現在の五条通は、豊臣秀吉が自らが建てた方広寺の前の通りを「五条」に変えてしまったもの。そういうわけで、松原通こそ義経弁慶出会いの地としての五条通なんだ、と言わんばかりに、義経と弁慶が松原通のマスコットキャラになってます。

 五条天神に関わる義経関係の説話としては、牛若丸が陰陽師で文武の達人であった鬼一法眼の末娘に馴染み、中国古代の軍師・太公望呂尚の兵書『六韜』を盗み出したことによって、この五条天神で法眼と牛若が戦い牛若が勝ったというものや、弁慶と牛若が始めてあったのは五条橋ではなく、この五条天神の森だったというものもあります。

 ところで、『橋弁慶』で弁慶が五条天神に丑刻詣をする、というのは実は観世流だけなんだそうです。宝生流では十禅寺(京都市山科区)に7日間参篭し今夜より北野へ丑の刻詣をすると言い、金春・金剛・喜多のそれぞれの流派では逆に、北野に7日間参籠ったので今夜から十禅寺に参ろうと言うとか。…観世流が変えたのかなぁ?

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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