住所:京都市右京区嵯峨野宮町1
私は今でこそ能と狂言のファンですけれど、元々は日本史ファン…というか今でも史学生です。日本史でも特に古代史、特に大伯皇女(661-701)という人物が好きなのです。彼女については、弟の大津皇子(663-686)との関連で、過去にこんなページも作ったので、興味のある方は読んでいただければ嬉しいのですが。
大伯皇女は天皇に代わって伊勢の大神を祭る未婚の皇族女性・斎王(さいおう、いつきのみこ)の初代です。斎王制度は飛鳥時代の大伯皇女に始まり、南北朝時代、後醍醐天皇の娘・祥子内親王を最後に断絶するまで、約650年間も続きました。斎王のいた宮殿のことを斎宮(さいぐう、いつきのみや)と呼びますが、平安時代以降、斎王のことを斎宮ともいうようになります。
平安時代の話ですが、斎王は選ばれると伊勢に向かう前に宮中で1年、京外の清浄な野でさらに1年の間、潔斎の生活を送ります。これを野宮と呼びます。平安時代中期以降には野宮は洛西嵯峨野に固定されました。野宮は黒木、つまり皮のついたままの木材で作ることが決まりで、それを聞くといかにも自然の中の宮殿というイメージですね。
能にも『野宮』という曲があります。『源氏物語』賢木を元ネタとする能で、斎王に選ばれた娘(後の秋好中宮)と共に野宮に籠もった六条御息所の霊が現れ、光源氏の愛を失った後の身の上を歎くという「幽玄でしっとりした趣」(『能・狂言事典』)の能だそうですね。原典の『源氏物語』にも「いといみじうあはれに心ぐるし」き風情が描かれています。
ただ、最近読んだ『伊勢斎宮と斎王』という本には、ホントに野宮はそんなにうら寂しいところだったのか、という疑問がかかれてました。ポイントは2つ。
(1)紫式部は時期的に野宮を見たことがないはずで、「彼女による心象風景」である可能性が高い。当時の貴族女性は洛中以外をほとんど知らない。
(2)野宮は事務も財政も宮中と一体で、多くの役人が出入りしていた。特に内裏警護の武士である「滝口」が駐在していたので、光源氏のように「お忍び」でやってきたら、大騒ぎになったりするかもしれない(笑)
『源氏物語』や、それをネタとした能『野宮』は、あくまでドラマなんだなぁ~と思いました。
ちなみに『伊勢斎宮と斎王』は、斎宮歴史博物館学芸員の榎村寛之先生が書かれたきちんとした歴史の本なんですけど、宝塚歌劇の話があったり、斎王を伊勢に送った藤原資房という貴族の日記をたどりながら、国司の怠慢に「さすがの資房もキレそうになる」とか書いてあり、全然堅苦しくなくて、楽しみながら読んでます。
伊勢斎宮と斎王―祈りをささげた皇女たち 榎村 寛之 |
ところで現在も嵐山嵯峨野に野宮神社があって、能『野宮』のワキの謡「我この森に来て見れば。黒木の鳥居小柴垣。昔に変わらぬ有様なり」に合わせたかのように、黒木の鳥居と小柴垣があります。もっとも「黒木の鳥居」は作り物ですが。
■関連記事
→野宮神社(公式サイト)
→野宮神社のミニ庭:京都取材旅行第一回[11](ほんのあなろぐ)
伊勢へは何百人もの従者が
群行したらしいですね。
大名行列のような物々しさで、
風情もない行列だったんでしょうね。。。
斎王の、伊勢への群行は、最大500人もの行列だったといわれています。
嵯峨天皇の時代以降は天皇が平安京の外に行くことがなくなりますから
その代わりに、朝廷の権威と威信を諸国に示す意味合いもあったようです。
斎王には輿が許されましたが、
これは他は天皇と皇后にのみ許された乗り物ですし。
でも、主人が斎王という女性であるだけに、周りを
乳母や女嬬といった私的な侍女たちが乗る華やかな女車が構え、
さらに女官たちは珍しく直接馬に乗っていた、という記録もあります。
大名行列よりよほど華やかだったようです。
葵祭の行列がありますけれど、あれが伊勢と賀茂の違いはありますが、
同じ「斎王」の行列なので、雰囲気としては似たところがあるはずです。
榎村寛之と申します。拙著をお読みいただき、恐縮の限りです。
『伊勢斎宮と斎王』にも少し書きましたが、斎王の行列は、輦(輿)に乗った斎王を中心に、騎馬の女官や、平安中期には牛車に乗った女房なども加わっており、イメージとしては賀茂祭の路頭の儀(葵祭のパレード)とともに、『石山寺縁起絵巻』に見られる、円融天皇の皇后、東三条院の石山寺参詣行列などが近いものになると思われます。
ついでに、斎王の旅の月は、宮廷では忌月とされ、通常の行事などは中止され。いわば物忌みに入るのが建前なのですが、じつは文中にもありました藤原資房の日記『春記(田中家本で、本として刊行されている『春記』には入っていない部分)』によると、荷物類などはこの月の間にぼちぼち先に送っていたようなのです。とすれば、軍事動員の形式をパレードにした大名行列よりは、見た目の美しさを意識はしていたようですね。もっともそのかっこで鈴鹿山を越えるのですから、貴族たちが「キレそうになる」のも無理はないのですが(^^;)
あ、ちなみに斎宮歴史博物館では「斎王群行」の映像とともに、推定復元した絵巻と人形模型も展示してます。ついでにPRでした。
榎村先生、こんなところまでコメントありがとうございます! 『伊勢斎宮と斎王』はとても面白く、最初参考文献として図書館で借りて読んでいたのですが、結局後々、買ってしまいました(^^)
教えていただいた『石山寺縁起絵巻』も見てみることにいたします。東三条院といえば一条天皇の母で、藤原道長の姉ですよね。『大鏡』に記された、伊周か道長か、いずれを摂関にするかの問題で、一条天皇の寝所に行って道長を推したという話が印象に残る人物です。そんな彼女の石山寺参詣行列の絵があるなんて、面白そうですね。
斎王の旅の月は忌月、というのも面白いです。不勉強なもので、何か特に忌月となることを記した文献などがあるのでしょうか。桓武天皇の朝原斎内親王の群行に併せて、大伴家持の埋葬がズラされたのでは、といったことをどこかで読んだ覚えがあるのですが、関連があったりするのかな、と気になっております。しかし、当時の鈴鹿越は大変だったでしょうね(^^;)
斎王や斎宮に関したレポートを書くつもりでおりますので、近いうちに斎宮歴史博物館へ参りたいと思っております。数年前に参ったときと随分変わったと聞いておりますので、楽しみにしています。