今日のお稽古は『三輪』でした。
私は記憶力に頼って、大鼓を打ってしまうことがあります…。例えば今日の稽古はそうでした。間違いがなかったという意味では良い出来。しかし、「それではオモロないねん」と師匠。
例えば『三輪』の神楽に続くシーンでは、記紀神話で有名なアマテラスの岩戸隠れを描いています。
(1)「天の岩戸を引き立てて。神は跡なく入り給へば。常闇の世と。はやなりぬ」
(2)「八百万の神たち。岩戸の前にてこれを歎き。神楽を奏して舞ひ給へば」
(3)「天照大神その時岩戸を。少し開き給へば。また常闇の雲晴れて。日月光り輝けば。人の面白々と見ゆる」
古文でも意味の分かりやすい部分ですが、神楽の舞に続いて囃子は(1)の部分で囃すと、(2)の部分ではそれぞれの楽器から手を放してしまいます。そして(3)になると、再び囃すのですが、(1)は岩戸隠れで世界が闇に包まれた箇所で、一方の(3)は反対に岩戸の割け目から光が溢れ出ている箇所。全く逆の情景ですから、全然違うように囃されるべきなんです。
…ですが、覚えることで精一杯の私はそんなことに全く考えが及ばず、ただ真っ直ぐに打つばかり。ダメですね、まったく。
覚えることはスタート地点に立つことに過ぎないってこと、嫌と言うほど味わって来たはずなのにまた、やってしまいました。大鼓の稽古歴もある程度になったのだから、いつまでもスタート地点にいることで、安心してちゃダメです。もっと曲や謡の意味を考えて、シテと一緒に演じる、ってぐらいではなきゃ。精進します…。
大鼓って稽古したことありませんし、そこまで分析してお能を拝見したことがないのでよく分かりませんが、、、
(1)では岩戸隠れで、お囃子せず
(2)で神楽のように囃し、(3)でも祝福で囃す、、、
このように思いますが、実際にお能では
(1)(3)で囃すのですね。うむ~~。。。
Nittaさん、お返事ありがとうございます~。
言葉面だけを見られると、Nittaさんの仰るのも分かりますが、
(1)~(3)に書いた文章の前にロンギ(論議)部分があって、
「げにありがたき御相好。聞くにつけても法の道なほしも頼む心かな
「とても神代の物語。委しくいざや顕しかの上人を慰めん
「まづは岩戸のその始め。隠れし神を出さんと。八百万の神遊び。
これぞ神楽の始めなる。
「ちはやぶる
そして神楽の舞、となっているので。音楽的に神楽っぽい部分を
重ねるというのはないと思います。神楽前の「ちはやぶる」と
後の「天の岩戸を引き立てて」はセットになっている感じもありますし。
もっとも私がお稽古を受けたのは観世流の常の形、というだけで、
『三輪』は、神楽部分などに小書の多い曲で神道的な秘伝なども
あるらしいです。そうなると、よく分かりません~(笑)