大阪樟蔭女子大学主催 東西狂言会

「大阪樟蔭女子大学主催 東西狂言会」を見てきました。

狂言方の東西の人間国宝(茂山千作師&野村萬師)を揃って、しかも無料で見られる催しなんてこれぐらいです。ちょうど休みと重なってラッキーでした。

演目は和泉流の《文荷》と、大蔵流の《鎌腹》《腰祈》。《腰祈》は全くの初めてでしたし、《文荷》と《鎌腹》はそれぞれの流派で見るのは初めてだったので、演出の違いを知れて満足でした。

和泉流狂言《文荷》

主人の恋文を太郎冠者・次郎冠者の二人が運ぶ珍道中を描いた狂言。恋文の相手について大蔵流ではさっと流しますが、今回見た和泉流では、太郎冠者が「女の元に通うのは子孫繁栄の為になるが、少年のところへ通っても意味がない」といったことを言って、主人の”少人狂い”を批判するセリフもあり、相手が少年であることをかなり強調した演出となっていました。

今まで見た大蔵流《文荷》では「人の恋文を勝手に開けて、それで遊ぶなんてコイツら最悪やな~」と思ってました(といいつつ、笑ってるんですけれど)が、和泉流では少人狂いの演出が入ることで、二人の冠者の罪悪感は薄れます。しかし、同性愛を強調されると、なんだか不気味に感じてしまいますね。同性愛者の人には失礼だと思いつつも…。

前に舞がすごいと感じ入った野村萬師と万蔵師の親子。ふざけ合いながらも、今回もきっちり決まった姿が素敵でした。

大蔵流狂言《鎌腹》

妻に殺されそうになった太郎。仲裁人のとりなしで助かるものの、妻への面当てに鎌で腹を切って死んでしまおうとするが、結局死ねない、という話。口ではいろいろと大きなことをいう割に、全く実行が伴わない太郎が親しみを感じます。

今死ぬるぞと大声で触れ回ったりして、誰か止めてくれるのを期待しているらしいのは、格好悪いですが、とても人間らしく感じて大好きです。

以前見た和泉流の同曲では、太郎は結局死ぬことを諦めて、今日は大人しく柴刈に行くことにし、謡を謡って終わります。対して今回見た大蔵流では、夫が死んでやると叫んでいることを聞きつけて、妻が慌てて駆けつけ、太郎が死ぬなら自分も淵川に身を投げる、なんでもするといいます。その様子を見て、太郎はならば代わりに腹を切ってくれと言い、結局怒った妻に追い込まれると終わり方。

和泉流の方が綺麗なまとまり方ですが、私は大蔵流の方が泥臭い中に人間のひとつの真実が見えるようで好きですね。また最初の、妻が太郎を追いかける箇所に戻って、誰か留めに来るのかな、と思ったりします。

大蔵流狂言《腰祈》

修行を終えた若い山伏(卿の殿)が、見舞いに立ち寄った祖父の腰が曲がっているのを見て、行力(超能力)で直そうと祈るものの、効きすぎて祖父は反り返ったり、曲がり倒れたりしてしまう、という話。

山伏は、修行を終えて一人前になったということで、太郎冠者に対して随分偉そうにしていますが、祖父は卿の殿はえのころ(子犬)が好きじゃによって、あれなりと欲しがらば取らせてくれいとか卿の殿は飴が好きじゃ。違い棚にあろう。早う取らせいなどと太郎冠者に命じたりと、祖父にとってはあくまで「小さな孫」という扱いが微笑ましかったです。そんなものですよね。

結局最後まで腰は上手く伸びないわけですが、最後に腰が伸びすぎて反り返った時のことを思い出して、久しぶりに日天子を拝んで、この祖父の寿命も長かろう五百八十年七周りまでもさあさ卿の殿、こちにおりゃれ参りますると大団円で終曲。

確か「年寄りをなぶりに来た」と怒った祖父が山伏を追い込む演出もあったと思うのですが、仲良く終わる方が気持ち良いですよね。

大阪樟蔭女子大学主催 東西狂言会

◆10月16日(月)18時~ 於・東大阪市立市民会館ホール(大阪府東大阪市)
★和泉流狂言『腰祈』
 シテ(太郎冠者)=野村萬 アド(次郎冠者)=野村万蔵 アド(主)=小笠原匡
★大蔵流狂言『鎌腹』
 シテ(太郎)=茂山千之丞 アド(妻)=茂山あきら アド(仲裁人)=木村正雄
★大蔵流狂言『腰祈』
 シテ(祖父)=茂山千作 アド(山伏・卿の殿)=茂山千五郎 アド(太郎冠者)=茂山正邦

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柏木ゆげひ

大学の部活動で能&狂言に出会ってから虜→現在は会社員しながら能楽研究の勉強中。元が歴史ファンのため、能楽史が特に好物です。3ヶ月に1回「能のことばを読んでみる会」開催中。能楽以外では日本史、古典文学などを好みます。

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