さて、すでに2週間ほど前の話なのですが、古代史仲間の碧穂さんが関西にいらっしゃったのに2日ほど同行して、いくつか古代史跡巡りしてきました。
その最初が夏見廃寺。三重県名張市にある7世紀末~8世紀前半の古代寺院跡なのですが、これは『薬師寺縁起』にある記述から天武天皇の娘・大伯皇女(661-701。大来とも書く)が建てた「昌福寺」ではないかとされています。
大来皇女、最初斎宮。神亀二年を以て浄御原天皇の奉為に昌福寺を建立したまふ。夏身と号す。伊賀国名張郡に在り。
(『薬師寺縁起』大来皇女)
神亀2年は西暦に直すと725年。大伯の死後になりますが、伽藍の完成年代を表すと考えられています。発掘された遺物から大和との深い繋がりが窺えるため、朝廷中央からの援助を受けていたと考えられており、発願人である大伯の死後も造営が続けられたのでしょう。
史跡の隣になかなか味のある展示館があり、一番奥に実物大で復元された金堂を見ることができます。それで面白いと思ったのは、夏見廃寺の本尊は彫刻の仏像ではなく、レリーフで作られた「塼仏」だったらしいこと。大きさの違うレリーフを組み合わせ壁一面に敷き詰められた姿は、貼られた金箔の光沢もあって確かに神々しい。…館内撮影禁止なので、写真を載せられないのが残念です。古代の仏教信仰の一端を感じた気がしました。
館内には型を作って粘土をつめ、取り出して焼いたものに金箔を貼って作るという塼仏の製作工程の展示もあり、また文献史学から分かる、当時の伊賀名張地方のことなどを紹介されており、入館料200円の分は十分に取れたように思います。
名張の地は大和と伊勢の中間地点であり、天武天皇にとっては壬申の乱の出陣の地、大伯皇女にとっては、斎王として過ごした伊勢での記憶に繋がる土地でした。それはもしかしたら、謀叛の疑いを受けて死んだ弟・大津皇子が、政情不安の中を敢えて伊勢まで会いに来たその「道」としての思い出にまで繋がるのかもしれないな、なんて思ったり。…これはあまりにロマンチシズムに浸った思いでしょうか。
二人行けど行き過ぎがたき秋山を いかにか君がひとり越ゆらむ
(『万葉集』より。大津皇子が窃かに会いに来た時、大伯皇女が詠んだ和歌)
前から行きたかった夏見廃寺ですが、なかなか腰を上げることができませんでした。行く契機を作ってくださった碧穂さんに感謝です
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Natsumi Templesite, Mie 三重・夏見廃寺
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