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八月十五夜(といっても旧暦なので秋)の名月の夜、一人の座頭が月を見ることはできなくとも虫の音を楽しもうと言って、野辺に出かけます。すると月見に来た男と出会い、二人は歌を詠みあい、意気投合して酒宴となります。謡い舞って良い気分のまま別れますが、男は途中で立ち戻り、座頭に喧嘩をふっかけ引き倒してしまいます。座頭はさっきの人と違って情のない人もいるものだと言って、独り野辺で泣くのでした。
『月見座頭』はしみじみとした秋の風情を描いた名曲です。狂言はただの喜劇だとか風刺劇などではなくて、人間を描いた劇だといえる例だと思います。 ちなみに座頭というのは、目が見えない人たちの位のひとつです。『座頭市』という映画もありますよね。中世には目の見えない人たちは平家琵琶語りなどの座を形成していて、上から検校・別当・勾当・座頭という位を設けていたとそうです。もっとも目の見えない人一般を「座頭」と呼ぶ場合もあり、『○○座頭』という曲名でも、実際には1ランク上の勾当が登場する狂言もあります。この『月見座頭』も山本東次郎家では長袴を穿いた「勾当」の姿で演じるそうです。 私が見た『月見座頭』は(二世)善竹忠一郎師のものなのですが、とてもその品の良い装束で、品の良い人物でした。松虫の声を聞いては能『松虫』の話を思い出し、鈴虫の声は優しいと言ったり。しんとした舞台の上から、あたかも虫の音が聞こえてくるかの心地すらした名演でした。 前半は男との心通い合う酒宴ですが、そこで男が詠む古歌や謡は名月に関するものですが、一方、座頭はあくまで虫の音に関するものばかりです。一見、共に楽しんでいるように見せながら、後半、実際には心通い合ってはいなかったことを暗示するのかもしれませんね。 男の古歌 座頭の古歌 ちなみに和歌はどちらも『百人一首』に載ってます。藤原良経は「後京極摂政前太政大臣」の名前ですが。 古歌の謡に続いて、座頭が酒宴で舞うのは盲目の悲しさを描いた能『弱法師』の舞です。ちょっと自虐的にも思えます。それとも普段から虐げられることに慣れているのでしょうか。物静かな座頭ですが…節々からどこか悲しさを感じさせるんですよね。 引き倒された後の座頭は、さっきまで酒宴を共にした男と引き倒した男は別人だと信じて疑わず、健気です。座頭の悲哀が引き立つ一方、男は目がみえても大切な事は何も見えてないのだなと感じました。 (2004/11/01) |
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