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2003年3月13日・14日、東京に行ってきました。 観世清和師ファンの後輩に誘われてです。はじめ、誘われた時は迷いました。確かに観世清和師の能は好きだけど、東京まで行ってみるのは大変だ…と。 それでも、着いて行くことを決心したのは、同じ日から観世能楽堂にて一般公開されるという「世阿弥自筆能本」を見たかったからです。なんといっても、能楽の大成者である世阿弥の自筆! 能楽ファン、そして同時に歴史好きである私にはたまらなかったのでした。…しかし、室町時代の自筆本が残っているとは、観世宗家恐るべしです。 ちなみに「謡本」ではなく「能本」というのは、謡の文句だけではなく、演出や装束に関する注記も記されているからだそうです。 今回、公開されたのは『難波梅』『松浦』『阿古屋松』『布留』の4曲。入場の際に渡された解説によると「世阿弥は能本を与えることがその相手への作品の相伝を意味して」いたそうです。『難波梅』は世阿弥が弟である四郎へ、ほかの3曲は、四郎の息子で後に観世座を継いだ音阿弥に相伝されたものです。 世阿弥は晩年、音阿弥を贔屓する将軍足利義教の命令で、佐渡へ配流されたりしたので、娘婿である金春禅竹にいろいろな伝書を渡したそうですが、決して初めから音阿弥と決別していたわけはないんですね。 そういえば「応永三十四年演能記録」という古記録は、世阿弥が最も観世座内で影響力の強かった時期の記録だそうですが、世阿弥の長男である十郎元雅と音阿弥がほぼ同数のシテを勤めてたそうです。音阿弥が元々は世阿弥の通称であった「三郎」を名乗っていることから、世阿弥の養子になっていたのではないか、という説もあります。結果として世阿弥に仇為すことになってしまいましたが、音阿弥は世阿弥も期待する優れた能役者だったのです。 話が横にずれてしまいましたが…。 実際に見た世阿弥の能本は、決して読みやすい字とはいえませんでした(苦笑) ツレの後輩は「汚い字ですね」と言ってましたし(をひ) しかし、『風姿花伝』その他の伝書と同じく、世阿弥の持つ能の精神を正確に後世に伝えるべく、カタカナ書きになっていること、中世には珍しい濁音表記(「゛」や「゜」が書いてあるんです)や促音の「ッ」が小文字表記になっていること(現行の観世流謡本では「つ」で、横に小さく「ツメル」って書いてありますけど)、そして句切れを意識して改行などがなされることなど、工夫されていたのが分かって、とても面白かったです。 字はあくまで実用本位なためでしょう。現代まで残ったからこそ、ガラスケースの中に入れられて人に見られることになったのですから。 4曲の中で現行曲として残っているのは、『難波梅』(現行曲『難波』)のみですが、応永20年(1413)に書かれたこの能本が現存する最古のものだそうです。ちょうど『難波』を習っていた時期なので、世阿弥の能本と現行の謡と見比べてみたのですが、多少の文句の違いはありましたけれど、それは流派によって存在する文句の違い程度で、ほとんど変わっていないというのが分かりました。 ほかの能本に関していうと、『松浦』は『松浦佐用姫』として1963年に観世元正師が復曲、『布留』は1984年に山本順之師が復曲、『阿古屋松』は2004年に観世清和師が復曲される予定だそうです。 (2003/08/24) |
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