|
平安文学を代表する作品といえば、なんといっても『源氏物語』でしょう。 その評価は物語が世に出て間もない頃から極めて高く、十数年後に書かれた『更級日記』の作者が『源氏物語』全巻を手に入れた時、その喜びを 后の位も何にかはせむ(お后さまになるよりも幸せ) と書くほどでした。貴族の娘なら、誰もが皇后位を夢見た時代に、です。 しかし、一方で『源氏物語』などの作り物語は所詮は狂言綺語、つまり無いことを装飾して言い表した作り事だとして、罪であるとし、その大作を作った紫式部は地獄に堕ちたとする伝承も古く伝えられています。 一方、紫式部の同僚で、恋多き女性歌人として知られる和泉式部は夫(橘道貞)との間に子ども(のちの小式部内侍)がいながらも敦道親王の愛人となり、さらには親王宅へと移り住んで本妻(大納言藤原済時女)を追い出してしまっています。私の感覚では紫式部よりもよほど地獄に近そうに思えるのですが(…というと、和泉式部には悪いですが)、死後、歌舞の菩薩となったという伝承があり、それが能『東北』『誓願寺』などとなっています。 これは やまと歌の興りはあらかねの土にして。スサノヲの命の… と能『草紙洗』の謡にあるように、『古事記』『日本書紀』に、スサノヲがヤマタノオロチを退治した後に作った 八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を という和歌が、和歌の祖であるという伝承に由来する神聖視、和歌の他の文藝に対する地位の高さによるものでしょう。当時から和泉式部を「浮かれ女」と書いてる文章も存在する(『和泉式部集』)のですが、それでも和歌によって名を立てた和泉式部は菩薩となるのです。 ところで、地獄に堕ちた方である紫式部は『紫式部日記』に 和泉はけしからぬかたこそあれ(和泉式部は感心できない人間である) と書いてます。さらに読み進めると 清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかり賢しだち漢字書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと耐えぬこと多かり(清少納言こそは、高慢きちな顔をして実に大変な人。少しばかり利口で漢学の才能を書きを散らしているけれど、よく見ると、十分ではない点が多い) という箇所も。同時代の才人たちを、こうも貶しまわっている紫式部。地獄に堕ちても仕方がないのかも?? (2004/08/03) |
|