大津皇子の謀叛と処刑


 『日本書紀』によると、大津皇子は父・天武天皇の崩御後すぐに皇太子・草壁皇子に対して謀反を起こした、とされています。

 丙午、天皇の病、遂に差えず。正宮に崩ず。
 戊申、始めて発哭たてまつる。則ち、殯の宮を南庭に起つ。
 辛酉、南庭に殯し、即ち発哀たてまつる。是の時に当たりて、大津皇子、皇太子に謀反せんとす。

(『日本書紀』天武紀、朱鳥元年9月9日条〜24日条)

 丙午(9日)に天武崩御。戊申(11日)に殯(もがり。葬礼)の宮が建てられ、そして辛酉(24日)から殯が行われました。『日本書紀』の記述に従えば、その葬礼の時に、大津は草壁を倒すための行動を開始したことになります。

 しかし、この「謀反」はすぐに皇后・鵜野讃良皇女側に「発覚」しました。そしてすぐに大津の一党30数名が逮捕されたのです。

 皇子大津の謀反、発覚す。皇子大津を逮捕す。併せて皇子大津が為にあざむかれたる直広肆八口朝臣音橿、小山下壱伎連博徳、大舎人中臣朝臣臣麻呂、巨勢朝臣多益須、新羅沙門行心と張内礪杵道作等、三十余人を捕む。
(『日本書紀』持統称制前紀、朱鳥元年10月2日条)

 この「発覚」の蔭には密告者がいました。河嶋皇子です。これは『懐風藻』に書かれていることです。

 河嶋皇子。皇子は淡海帝(おうみのみかど=天智天皇)の第二子なり。志懐温裕、曲量弘雅。始め大津皇子と莫逆の契りを為す。津の逆を謀るに及び、嶋則ち変を告ぐ。
(『懐風藻』)

 河嶋は『懐風藻』にも書かれている通り天智の息子で、母親は忍海色夫古娘という女性でした。そのため決して血筋はよくなかったのですが、同母の姉である大江皇女が天武の妃のひとりになっていて、また『万葉集』に残っている和歌から考えると天武の娘である泊瀬部皇女を妃としていたようです。そんなところからか、河嶋は天武朝において草壁・大津・高市に次ぐ皇子中第4位という扱いを得ていました。

 大津と河嶋は互いに漢詩を作ることからか、それとも互いに天智に近い存在であったからか(その辺りはどれだけ考えても想像の域を出ませんが)、ふたりは諸皇子の中でも特に親しくなり親友の契りを成していました。大津が実際に「謀反」を計画したかははっきりしませんが、大津が親友の河嶋に対して、現在の境遇の不満を口にし「母上さえ健在であったならば、私が皇太子になったはずだ」みたいなことを言ったことはあったかもしれません。

 私は大津なら謀反を実際に企んでいたのではないだろうか、と思います。「性、頗る放蕩にして、法度に拘らず」と評された大津だけに、父帝亡きあとに形成挽回を狙って「実力勝負」に出たという可能性もなきにしもあらず、だと思うのです。

 そのことを皇后へ訴えでるか否か。河嶋は逡巡したと思います。天武晩年になり皇后と草壁の権力が増大するにしたがって、河嶋は大津と親しい天智の皇子という自らの立場の危うさをひしひしと感じていたでしょう。きっと大津は「当然オレのほうにつくよな」みたいなことを言ったでしょうし、一方皇后からは「どちらに付けば良いか、分かっていますね」と揺さぶりをかけられたかもしれません。

 親友と権力者の板ばさみに河嶋は悩み、ついに彼は権力者の方へとついたのです。そのために、彼は親友を売った男として有名になってしまいました。もちろん、彼がやったことは決して褒められることではないでしょうが、もし彼のような立場において選ぶ立場となったとき、自分ならどうしたか想像してみると分かりません。河嶋は河嶋なりに悩んだことでしょう。

 朝廷其の忠正を嘉みすれど、盟友其の才情を薄みす。議する者未だ厚薄を詳らかにせず。然すがに余おもへらく、私好を忘れて公に奉ずることは忠臣の雅事、君親に背きて交わりを厚くすることは悖徳の流ぞと。但し未だ争友のuを尽くさずして、其の塗炭に陥るることは、余も亦疑ふ。位浄大参に終ふ。時に年三十五。
(『懐風藻』)

 『懐風藻』においても、私情を捨てて朝廷のために働くのは忠臣のなすべきことであると一応は褒められているものの、友人にはその情の薄いことを非難され、『懐風藻』の作者もまた「友として忠告もせずに、大津を苦しみに陥れたのは、私もまたよくないと思う」と手厳しい一言がつけられています。

 こうして友を売り様々な批判を受けてまで生き延びた河嶋でしたが、たった5年後、しかも官位の昇進もなく官位の改定の際に与えられた浄大参のまま、その生涯を終えてしまいます。

 庚午、皇子大津、訳語田舎に於いて死を賜ふ。時に年二十四。……
 丙申、詔して曰ふ、「皇子大津、謀反す。あざむかれたる吏民・張内は已むこと得ず。今皇子大津、已に滅びぬ。従者の皇子大津に坐れるは、皆許すべし。但し、礪杵道作は伊豆に流せ」と。又詔して曰ふ、「新羅沙門行心、皇子大津の謀反するに与すれども、朕、法を加ふこと忍びず。飛騨国の伽藍に徙せ」と。
(『日本書紀』持統称制前紀、朱鳥元年10月3日条〜29日条)

 河嶋の密告を機として、逮捕された大津一党は合わせて30数名でした。逮捕の翌日、大津は訳語田の家にて死を命じられました。それから20日あまり経ったのちに、鵜野讃良皇后は大津一党の処罰を発表しましたが、大津の張内(皇子に仕える舎人)だった礪杵道作が伊豆流罪、そして新羅の沙門(仏教僧)であった行心が飛騨の寺に、一応形式的には許されつつも実際は流罪と同等に追いやられた以外は、「皆許すべし」とされました。

 ちなみに行心は『懐風藻』大津皇子伝に

 時に新羅僧行心といふもの有り。天文卜筮を解す。(大津)皇子に詔げて曰ふ、「太子の骨法、是れ人臣の相にあらず。此れを以ちて久しく下位に在らば、恐るらくは身を全くせざらむ」と。因りて逆謀を進む。此のあざむきに迷い、遂に不軌をはからす。
(『懐風藻』)

と、記されています。とすると、大津に謀反を奨めたのは、この行心ということになりますが、、、もしくは新羅のスパイとも言われています。

 あまりに迅速すぎる大津の処刑、それに対して断罪されたものがたった3人という異常さ。これは大津の「謀反」が実際には存在しなかったからだ、という説もあります。しかし私は、大津に近い者の中に皇子中第4位にいた河嶋がいたように高位高官の中にも大津を支持するものがいて、謀反計画はそれなりに進んでいたと考えます。

 例えば河嶋と同じ浄大参の位を授けられていた忍壁皇子は、『日本書紀』持統紀には一度もその名前が記されてません。また、大宝元年に新しい『大宝律令』が施行され官位が改訂されるまで、位は据え置かれたままでいました。これはなんらかの理由で、皇后(=持統天皇)に敬遠されてたといわれています。天武崩御の直前には、

 雷、南方に光りてひとたび大きに鳴る。則ち民部省の蔵庸舎屋に天災けり。或いは曰ふ、忍壁皇子の宮の失火延じて、民部省を焼けり。
(『日本書紀』天武天皇、朱鳥元年7月10日条)

という記事がありますが、なんとなしに天智の晩年に頻発した大津宮の火災と通じるものがあるような気がします。天智晩年の火災は近江朝に反感を持つ者の放火だと見られています。上の忍壁の失火もあるいは、と私は思うのです。そこから忍壁が大津と親しかったとまで言ってしまう気はありませんが、忍壁も草壁・鵜野讃良体制に反感を持っていたのではないでしょうか。

 このようにに、吉野の盟約に参加した六皇子の中の半数が反草壁・鵜野讃良といえる可能性のある状態である以上、他の諸王諸臣の中にも多くいたのではないでしょうか。それらを全て断罪することによって、都や政治が乱れることもまた皇后が望んでいたことではありませんでした。そのために大津を間髪入れずに消し去り、そして大津の側近2人を流罪にして、ほかは大津に「あざむかれ」たとして、責任を表向き不問とする。そうすることによって、「大人しくさえしていれば身は安全である。だが、、、」という恐怖のもとに、皇后は草壁の即位を狙ったのです。

(written on 2001/03/07)


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