吉野の盟約


 天武8年5月5日、天武天皇は即位7年目にして壬申の乱後初めて吉野へ行幸しました。その翌日。

 天皇、皇后及び草壁皇子尊・大津皇子・高市皇子・河嶋皇子・忍壁皇子・芝基皇子に詔して曰ふ、
「朕、今日、汝らとともに庭にて盟ひて、千歳の後に事無きことを欲す。いかに」と。


 この行幸は鵜野讃良皇后と天武・天智の皇子たちを引き連れて「千歳の後に事無きこと」を盟約させるためでした。壬申の乱に勝利したことで強力な王権を手に入れた天武でしたが、この頃になると自らの息子たちや甥たちがそれぞれ成長して周りに勢力を形成するようになっていました。そのため、天武没後に予想される皇子たちによる内紛を回避するため、盟約を壬申の乱発祥の地である吉野で厳粛に執り行おうとしたのです。

 そういった旨の詔に対して、

 皇子ら、共にこたえて曰ふ、
「理実、いやちこなり」と。


 皇子たちは「仰せごもっともでございます」と答え、さらに皇后の子である草壁皇子が進み出て誓いました。

 則ち草壁皇子尊、先づ進みて盟ひて曰ふ、
「天神地祇及び天皇、証らめたまへ。吾、兄弟長幼併せて十余り王、各おの異腹より出でたり。然れども、同じきと異れると別かれず、倶に天皇の勅に随ひ、相扶け忤ふること無し。若し今より以後、この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ。忘れじ、失せじ」と。


 そしてそのあと、他の5人の皇子が同じように宣誓していきました。

 五皇子、次以って相盟ふこと、先の如し。

 確かに表面上は平和の誓いですが、草壁が最初の誓約者となることで、草壁を他の皇子たちの筆頭、しいては次代の天皇位の継承者たる皇太子であることを暗黙のうちに了解させたのではないか、といわれている箇所です。そう考えていくと、誓約の「この盟ひの如くにあらずは、身命滅び子孫絶えむ」とはほとんど脅迫文のように見えてきます。端的に言えば「従わなぬものには死を」というわけですから。

 また、このような儀式が天皇・皇后と諸皇子たちによって行われたということには、群臣から一人の大臣も任命することなく、政府首脳部を皇族のみによって固めた天武の皇親政治の縮図が描かれていると言ってもいいと思います。

 然して後、天皇曰ふ、
「朕が男等、各おの異なる腹に生まれたり。然れども今一母同産の如く慈む」と。
 則ち、襟を披き其の六皇子を抱く。因りて以って盟ひて曰ふ、
「若し茲の盟ひに違へば、忽ち朕が身亡はむ」と。
 皇后の盟ひ、且天皇の如し。


 ここに皇后が登場するのは、この盟約の立役者が皇后であったから、だといわれています。こうして、鵜野讃良皇后は自らが産んだ草壁を、大津皇子・高市皇子などを抑えて、皇太子とする地固めをしたのです。

(written on 2001/12/22)


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