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大伯皇女・大津皇子関係略年表
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『万葉集』は日本最古の歌集です。その中に納められている4000首以上の和歌には、伝誦歌ありの、古代の天皇など著名な歌人の和歌ありの、東歌・防人歌などと呼ばれる庶民の和歌ありのと、本当にヴァリエーションに富んでいます。 と、なんか勿体つけて言ってはいても、私は、散文ならともかく、和歌を何十首も連続で聞いたり読んだりするのに耐えられるような造りになっていません(笑) 一度、年賀状でカッコつけようと、平安時代の代表的な和歌集である『古今和歌集』を読んでみた経験はありますが、結果、第一巻を読んだだけで力尽きました(^^; ましてや、『古今和歌集』の4〜5倍もの量の和歌を収録している『万葉集』をすべて読むことができるはずもありません(笑) そんなわけで、私が『万葉集』のなかで知ってる和歌となると、やはり印象の深かったものとなります。例えば次の歌。 わが背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我が立ち濡れし (『万葉集』第2巻) 天武天皇の娘、大伯皇女(「大来皇女」とも書く)の和歌です。意味は「私の弟の大和への出発を見送り、無事を祈るうちに夜も更けて、私は暁の露に濡れるまで立ち尽くしていた」ぐらいですが、和歌は古語といっても日本語、私がつけた下手な訳なんかよりも、原歌を味わって欲しいです。 ところで、この歌に詠われた「背子」つまり弟ですが、彼の名は大津皇子といいます。当時の歴史書である『日本書紀』と日本最古の漢文集である『懐風藻』に伝が載っていますが、それを見ると 皇子大津、天渟中原瀛真人天皇(天武)の第三子なり。容止墻岸、音辞俊朗なり。天命開別天皇(天智)の愛す所となる。長ずるに及びて弁しく才学有り。尤も文筆を愛す。詩賦の興り、大津より始まるなり。 (『日本書紀』持統称制前紀、朱鳥元年10月3日条) 大津皇子。皇子は浄御原帝(天武帝)の長子なり。状貌魁梧、器宇峻遠。幼年にして学を好み、博覧にして能く文を属る。壮ずるに及びて武を愛し、多力にして能く剣を撃つ。性、頗る放蕩にして、法度に拘らず。節を降して士を礼ぶ。是に由りて人多く附託す。 (『懐風藻』) と、あります。併せて現代語訳すると、「大津皇子は天武天皇の息子で、容貌凛々しく頭脳明晰。武道に優れ、更に詩文にも通じていた。規則に拘らない奔放な性格で人には礼を尽くし、多くの人に慕われた。その聡明さ故に幼いころは伯父であり祖父でもある天智天皇に愛され、日本の漢詩の隆盛は大津皇子から始まった」と言った感じです。 まさにベタ誉め状態ですね(^^;) そんな彼も『万葉集』に和歌を数首残しています。例えばこの歌。 あしひきの山のしづくに妹待つとわれ立ち濡れし山のしづくに (『万葉集』第2巻) 「妹」は「いも」と読みます。この当時の「妹」は、現在のように年下の女兄弟のことのみを指す言葉ではなく、男が愛情を持つ女性一般のことをいう呼称で、恋人のことにも使われましたし、自分の姉妹にも使われました。そういうわけで、先の和歌を現代語訳すると「あなたを待っているうちに山のしずくに濡れてしまいました」という意味になります。 歴史小説家の永井路子さんは、「この私を、いつまで待たせるんだい」という意味と取っていました。そう考えてみると、ヒーロー大津の自信が感じられて面白い見方だなと思うのですが、私が参考にした新日本古典文学大系『万葉集』の注釈には、違うことが書いてありました。 当時の恋愛は男が女のもとへ通う形態だったのですが、大津の歌では大津が待っていることになります。しかも山の中で。これは尋常ではありません。どうしてそんなことになるのか。この歌の背景を考えてみます。 この大津の歌を贈られたのは、石川郎女という女性です。実は彼女にはもう一人の男が思いを寄せていたのです。その男の名は草壁皇子。大津の異母兄にして皇太子です。次代の天皇候補者の目を盗んで、大津と郎女は会わねばならなかったのです。だから、このような尋常でない様子になるのだと、いう注釈でした。 『万葉集』には、結局大津は「窃かに石川郎女を婚」いたと記されています。「窃」は「窃盗」などに使われる文字。こっそりと人目を偲ぶ様子がよく表れていると思います。しかし、このことは津守通という陰陽師が占いに出たとして発表し、露顕してしまいます。その時にも大津は和歌を作っています。 大船の津守が占に告らむとはまさしく知りて我が二人寝し (『万葉集』第2巻) 「津守めの占いに出ることなんて分かってたさ。それでも私たちは共寝したのだ」という意味の和歌。まさに開き直りです。この強気はさすが、とも言いたいですが、どうやら草壁側の警戒を誘ったみたいです。特に草壁の母である鵜野讃良皇后にとっては、大津の存在が我が子の未来の前に立ちふさがる敵と見えたのかもしれません。「今回奪われたのは女性だったかもしれないが、今度奪われるのは皇位かもしれない……」と。 天武天皇の崩御後、事態は急転します。一月も経たないうちに大津は皇太子草壁へ謀反したとして処刑されました。その時、大津の妃だった山辺皇女は、大津の遺体に髪を振り乱し素足で駆けつけ、そのまま死んでしまったといいいます。 皇子大津の謀反、発覚す。皇子大津を逮捕す。…… 皇子大津、訳語田の舎に於いて死を賜ふ。時に年二十四。妃皇女山辺、髪を被し徒跣にて、奔赴して殉す。 (『日本書紀』持統称制前紀、朱鳥元年10月2日条〜3日条) そのときの大津の辞世の和歌と漢詩がそれぞれ『万葉集』と『懐風藻』に残っています。 百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠れなむ (『万葉集』第2巻) 金烏 西舎に臨み 鼓聲 短命を催す 泉路 賓主無く 此の夕べ 誰が家にか向かふ (『懐風藻』) 日本人は、悲劇のヒーローに弱いと思います。時代は違いますが、源義経の人気が高いのもやはり、その活躍そのものよりも、悲劇のうちに死んだということに高点数が与えられているのだと思います。大津が人気あるのも同様かもしれません。でも、私はそれを否定する気もありません。私も、たしかに大津を好きだからです。しかし私の場合、姉の大伯が好きだから、大津も好きだといった方が正確かもしれません。 大津自身の和歌や漢詩も彼の悲劇性を高めてはいますが、なんといっても姉大伯の和歌こそが大津の悲劇性を高めているといえると思もいます。特に最初に挙げた和歌。あの和歌は、大津が処刑される前に、伊勢で斎王であった大伯のところへ来たときのものなのです。 斎王とは、伊勢神宮の祭神・天照大神へ仕える天皇家出身の巫女のことで非常な清浄性が求められました。たとえ弟であっても男は直接会えません。しかも、大津が伊勢に来たのは天武天皇の崩御前後の政情不安の中でした。しかし、それでも大津は「窃かに伊勢神宮に下りて上り来」たのです。 二人が会って、何をし何を語り合ったのかは『万葉集』には何も書かれていません。しかしも、大津は翌日には伊勢を出発したようです。その後姿を見送りながら、大伯は「我が背子を…」の和歌とさらにもう1首の和歌を詠んだのです。 二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ (『万葉集』巻第2) 歌人の俵万智さんが仰るには「我が背子を…」の和歌は自分を外側から見る目、「二人行けど…」の和歌は自分の内面をそのまま詠ったもので、1首ずつでもいい歌だが、2首が重なり合って立体的に大伯の心情を描き出しているそうです。私にはそんな深い鑑賞はできないですが、大伯の思いの哀切さがぐっと来るという点で文句なしにこの2首が好きです。 詞書をなくしてしまったら、恋人へ送ったかのようにも見える和歌。あまりの愛情のこもりように、姉弟の肉親としての愛情を超えたものを読み取る人もいます。「背子」とは、女性の側からの「妹」みたいなもので、兄弟にも使いますが恋人に使う表現でもあり、特に『万葉集』では恋人へ使う用法が多いそうです。詞書にある「窃」という字についても、先に挙げた大津と郎女のように、男女の密事について使われる用法が多いといいます。 私は二人の間に具体的なことはなかったとは思いますが、大伯は13歳で斎王に卜定され、夫や恋人を持つことを堅く禁じられていました。大伯が斎王になったのも、大伯が結婚した場合にその姻戚関係によって大津を後援する勢力が生まれるのを恐れた鵜野讃良の策略だという見方もあります。その虚実はともかく、大伯にとって大津のみが身近で唯一の異性であった上に、幼くして母を亡くした姉弟だけに二人の絆は深かったので、大伯は大津に対して分類も比較もできない「愛」を持っていたのではないだろうか、と思ってるところです。 (Written on 2001/12/22) |
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