大伯皇女の帰京と挽歌


 大伯皇女は、斎王として都のある大和から遠い伊勢にいましたが、弟・大津皇子のことを心配していたことでしょう。

 いくら伊勢が離れているとはいえ当時、当然ながら当時も伊勢と大和の交通は存在していましたし、『日本書紀』に記されているだけでも、

 十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参り赴く。
(『日本書紀』天武紀、天武4年2月13日条)

 十市皇女の伊勢神宮に参り赴きし時に、波多の横山に巌を見て、吹(草冠+欠)刀自の作りし歌
河上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常娘子にて
 吹
(草冠+欠)刀自、未だ詳らかならず。但し、紀に曰く、「天皇の四年乙亥の春二月乙亥の朔の丁亥、十市皇女と阿閇皇女と、伊勢神宮に参り赴く」と。
(『万葉集』第1巻)

とあって、両皇女が伊勢に参っていますし、また、

 丙申、多紀皇女・山背姫王・石川夫人を伊勢神宮に遣す。
 五月庚子朔戊申、多紀皇女たち、伊勢より至れり。

(『日本書紀』天武紀、朱鳥元年4月27日条〜5月9日条)

と、天武天皇崩御直前にも多紀皇女ら公式の使いが交通していたことが分かります。この2回の交通の意味に関していろいろと論じられてはいますが、ともかく、都からやってきた皇女たちに対して斎王大伯が弟や父帝、そのほかの面識のある人々の近況を聞いたことは想像に難くありません。

 阿閉皇女(天智の娘。後の元明天皇)の母の蘇我姪娘は、大伯と大津の祖母・蘇我遠智娘の妹であることから、阿閉と大伯・大津は幼いころ一緒に育った仲かもしれません。また十市皇女(天武の長女)は大友皇子の妃であったため、天智天皇の下にいた可能性があり、同じく天智の下にいたと考えられる大伯・大津と親しかった可能性があります。もしかしたら、萩尾望都の戯曲『斎王夢語』にあるように、大伯・阿閉・十市の3人で女同士のおしゃべりもしてたかも、と想像すると楽しげです(^_^)

 また2回目の多紀皇女たちが伊勢に来た時は天武天皇が病気になる直前であり、大津の周辺に不穏な空気が漂う頃でした。噂は皇女たちを通さずとも大伯の耳に入ったのではないでしょうか。

 それから4ヵ月後、果たして大津は大伯の前に現れました。大伯が斎王となるために大和を出てから13年。大伯は13歳から26歳に、大津は11歳から24歳になっていました。出合った2人が一体何を語り合ったかは伝わっていません。だが一般には身に危険が迫るのを感じた大津が、ただ1人の姉と会うために伊勢に赴いたと考えられています。しかし、私は作家の氷室冴子さんが書かれた、

 これも「伊勢の斎宮」にかけてみれば、追い詰められた大津皇子は神意を尋ね、加護を願うために伊勢の巫女姫、姉に会いに行ったともとれます。今生の別れのつもりで、親族の姉に会いに行ったというより、そのほうが神々に近い時代にふさわしいような気もします。
(『新装版 なんて素敵にジャパネスク(6)』あとがきより)

という、『古事記』の倭建命と伝説上の初代斎王・倭姫命の話と関連してみた見方も非常に面白いと思っています。確かに作家的な見方であるとは思いますが、『日本書紀』には姉弟の父である天武天皇は壬申の乱において何度も神意を問うたと記されています。もちろん『日本書紀』は天武側の立場で編纂されたものであり、特に天武の正当性を直接記述する壬申の乱の記事についてはかなりたくさんの脚色があるとは思いますが、戦いの前に勝敗を占うという行為は、古今東西を問わずしばしば行われているわけで、大津も同じようなことを行おうとした可能性は十分にあると思うのです。

 しかし大津が語る打倒草壁皇子・鵜野讃良皇后の企図は、大伯が判断するところ無謀な暴挙にしか思えなかったのでしょうか。翌朝、大和へ帰る大津を見送って大伯は2首の和歌を詠みます。

 大津皇子の窃かに伊勢神宮に下りて上り来たりし時に、大伯皇女の御作りたまひし歌二首。
わが背子を大和へ遣るとさ夜ふけて暁露に我が立ち濡れし
二人行けど行き過ぎがたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ

(『万葉集』第2巻)

 弟が消えていった暁闇。それと同じぐらい暗い弟の行く末。それを思って立ち尽くす皇女の体は露に濡れていた、、、。

 大和へ帰った大津を待っていたのは破滅でした。これについては前項で述べているので、ここでは述べなません。

 伊勢神祠につかへ奉れる皇女大来、還りて京師に至る。
(『日本書紀』持統称制前紀、朱鳥元年11月16日条)

 大津の処刑後まもなく、大伯は斎王を解任され都へと上りました。斎王は親族に不幸のあった場合解任されることになっていますが、この場合は弟の賜死を受けてのものだと言われています。その時の悲しみの歌は『万葉集』に記されています。

 大津皇子の薨ぜし後に、大来皇女の、伊勢の斎宮より京に上りし時に御作りたまひし歌二首。
神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあらなくに
見まく欲り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲るるに

(『万葉集』第2巻)

 なんのために私は大和へ行くのだろう。住み慣れた伊勢の国ならともかく、弟のいない大和へ行くのなんて。ただ馬が疲れるだけなのに。

 大津皇子の屍を葛城の二上山に移し葬りし時に、大来皇女の哀傷して御作りたまひし歌二首。
うつそみの人なる我や明日よりは二上山を弟と我が見む
磯の上に生ふるあしびを手折らめど見すべき君がありといはなくに

(『万葉集』第2巻)

 意味もなく生き長らえる私。せめて二上山を弟と見て明日からを慰める、、、。

(written on 2002/03/27)


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