大津皇子が朝政を聴く


 天武12年2月1日の『日本書紀』の記事には次のように書かれています。

 大津皇子、始めて朝政を聴く。

 『日本書紀』にはこれだけしか書かれていません。だから具体的に大津皇子がどのように「朝政を聴」いたのかは分かっていません。太政大臣に任じられたのだ、という説もありますが、当時は大臣が任じられていない時代でありますし、大津を褒め称える『懐風藻』でも太政大臣とは書かれていないことから、そのような具体的な官名を伴ったものではないのでは、と私は思っています。

 この2年前に、草壁皇子が皇太子として「万機を摂」することになっていました。これは天武天皇、そして鵜野讃良皇后の長年の念願でした。そのために先の吉野の盟約を行ったのわけでもありました。草壁の立太子と同じ日に天皇と皇后がともに大極殿に御して、皇子・諸王・諸臣の前で「朕、今更に律令を定め法式を改めむと欲す」と宣して飛鳥浄御原令の編纂を命じ、さらにその翌月、河嶋皇子・忍壁皇子に「帝記と上古の諸事を記し定」めることを命じていますが、これらの律令・国史の編纂は草壁立太子の正当性を法制と歴史から補強する意味があったといえるでしょう。天武と鵜野讃良は全精力を以って律令国家の基盤を、草壁との関連で、確固たるものにしようとしていたのです。

 しかし、これらの事業は遅々として進まなかったふしがあるといいいます。吉田義孝さんの『大津皇子論』によると、

 即位十年(682)8月5日には、「法令を造る殿の内に大いなる虹ありき」と記されているけれど、「殿の内に大いなる虹」の立ちえようはずがないから、これはおそらく天武・持統系につらなる書紀編纂史官の朧化表現で、「訌」に通じる「虹」を用いて、当時律令修定にからみ、造法令殿内で大いなる内訌のあった事実を暗喩したものと解される。

 といいいます。吉田さんの論がそのまま言えるかどうかは、まだまだ考えるべきことだと思いますが、先に天智朝において大津朝廷の政治に反対するものたちが大海人に味方したように、現在の天武による政治に反対するものたちが大津の周りに集まりだしていたのではないか、とは考えることができるでしょう。

 そうでなくとも、大津は過去において「天命開別天皇(=天智)の愛す所」であった存在でしたし、また大津は天智天皇の娘である山辺皇女を正妃としていました。このようなところから、大津は大津朝廷残存勢力と近しい位置にあったことはいえると思えるのです。『懐風藻』に「是に由りて人多く附託す」とあるように、大津には多くの人々がつき従ったといいますが、その中には大津を天武・鵜野讃良・草壁ら現体制に反対するときの旗頭と見るものもいたのではないでしょうか。

 そうして台頭しつつあった大津の勢力に対して草壁側が懐柔の策に出た結果が、大津皇子にして「朝政を聴」かせることであったのではないでしょうか。

(written on 2001/12/22)


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