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※観世流の謡本に基づいたものですが、現代かなづかいにしたり、表記は読みやすいように改めました。太字が謡、それ以外がセリフです。
(ちなみに『敦盛』といえば、織田信長が好んだ「人生五十年。下天のうちに比ぶれば夢幻のごとくなり。ひとたびこの世に生を受け滅せぬもののあるべきか」という謡が有名ですが、これは能ではなくて幸若舞という芸能にある『敦盛』の言葉です。能の『敦盛』にはありません。念のため)

〔次第〕
ワキ「夢の世なれば驚きて。夢の世なれば驚きて。捨つるや現なるらん

〔名乗リ〕
ワキ「これは武蔵の国の住人。熊谷の次郎直実出家し。蓮生と申す法師にて候。さても敦盛を手に掛け申しし事。余りに御傷わしく候ほどに。かようの姿となりて候。またこれより一ノ谷に下り。敦盛の御菩提を弔い申さばやと思い候

〔道行〕
ワキ「九重の。雲居を出でて行く月の。雲居を出でて行く月の。南にめぐる小車の淀山崎をうち過ぎて。昆陽の池水生田川。波ここもとや須磨の浦。一ノ谷にも。着きにけり一ノ谷にも着きにけり

ワキ「急ぎ候ほどに。津の国一ノ谷に着きて候。まことに昔の有様今のように思い出でられて候。またあの上野に当たって笛の音の聞こえ候。この人を相待ち。この辺りのことども委しく尋ねばやと思い候

(前シテ・前ツレの登場)

〔次第〕
シテ・ツレ「草刈笛の声添えて。草刈笛の声添えて吹くこそ野風なりけれ

〔サシ〕
シテ「かの岡に草刈る男子野を分けて。帰るさになる夕まぐれ
シテ・ツレ「家路もさぞな須磨の海。少しが程の通い路に。山に入り浦に出ずる。憂き身の業こそもの憂けれ

〔下歌〕
シテ・ツレ「向わばこそ独り侘ぶとも答えまし

〔上歌〕
シテ・ツレ「須磨の浦。藻塩誰とも知られなば。藻塩誰とも知られなば。我にも友のあるべきに。余りになれば侘び人の親しきだにも疎くして。住めばとばかり思うにぞ。憂きに任せて過ごすなり。憂きに任せて過ごすなり

ワキ「いかにこれなる草刈たちに尋ね申すべきことの候
シテ「こなたのことにて候か。何事にて候ぞ
ワキ「ただいまの笛はかたがたの中に吹き給いて候か
シテ「さん候我らが中に吹きて候
ワキ「あら優しや。その身にも応ぜぬ業。返すがえすも優しうこそ候へ
シテ「その身にも応ぜぬ業と承れども。それ勝るをも羨まざれ。劣るをも賤しむなとこそ見えて候へ。その上樵歌牧笛とて
シテ・ツレ「草刈の笛木樵の歌は。歌人の詠にも作り置かれて。世に聞こえたる笛竹の。不審な為させ給いそとよ
ワキ「げにげにこれは理なり。さてさて樵歌牧笛とは
シテ「憂き世を渡る一節を
ワキ「謡うも
シテ「舞うも
ワキ「吹くも
シテ「遊ぶも

〔上歌〕
地謡「身の業の。好ける心に寄り竹の。好ける心に寄り竹の。小枝蝉折様々に。笛の名は多けれども。草刈の吹く笛ならばこれも名は。青葉の笛と思し召せ。住吉の汀ならば高麗笛にやあるべき。これは須磨の塩木の海士の焼き残しと思し召せ。海士の焼き残しと思し召せ

ワキ「不思議やな余の草刈たちは皆々帰り給うに。御身一人留まり給うこと。何の故にてあるやらん
シテ「何の故とか夕波の。声を力に来たりたり。十念授けおわしませ
ワキ「易きこと十念をば授け申すべし。それにつけてもおことは誰ぞ
シテ「まことは我は敦盛の。所縁の者にて候なり
ワキ「所縁と聞けば懐かしやと。掌を合わせて南無阿弥陀仏
シテ・ワキ「若我成仏十方世界。念仏衆生摂取不捨

〔下歌〕
地「捨てさせ給うなよ。一声だにも足りぬべきに。毎日毎夜のお弔い。あらありがたや我が名をば。申さずとても明け暮れに。向かいて回向し給える。その名は我と言い捨てて姿も見えず失せにけり。姿も見えず失せにけり

(シテの中入り)

〔待謡〕
ワキ「これにつけても弔いの。これにつけても弔いの。法事をなして夜もすがら。念仏申し敦盛の。菩提をなおも。弔わん菩提をなおも弔わん

(シテの登場)

〔一セイ〕
シテ「淡路潟通う千鳥の声聞けば。寝覚めも須磨の。関守は誰そ

シテ「いかに蓮生。敦盛こそ参りて候え
ワキ「不思議やな鳬鐘を鳴らし法事をなして。まどろむ隙もなきところに。敦盛の来たり給うぞや。さては夢にてあるやらん
シテ「何しに夢にてあるべきぞ。現の因果を晴らさんために。これまで現れ来たりたり
ワキ「うたてやな一念弥陀仏即滅無量の。罪障を晴らさん称名の。法事を絶えせず弔う功力に。何の因果は荒磯海の
シテ「深き罪をも弔い浮かめ
ワキ「身は成仏の得脱の縁
シテ「これまた他生の功力なれば
ワキ「日ごろは敵
シテ「今はまた
ワキ「まことに法の
シテ「友なりけり
地謡「これかや。悪人の友を振り捨てて善人の。敵を招けとは。御身のことかありがたし。とても懺悔の物語夜すがらいざや申さん。夜すがらいざや申さん

〔クリ〕
地謡「それ春の花の樹頭に上るは。上水菩提の機を勧め。秋の月の水底に沈むは。下化衆生の。相を見す

〔サシ〕
シテ「然るに一門門を竝べ。累葉枝を連ねしよそおい
地謡「まことに槿花一日の栄に同じ。善きを勧むる教えには。遇うこと難き石の火の。光の間ぞと思わざりし身の習わしこそはかなけれ
シテ「上にあっては。下を悩まし
地謡「富んでは驕りを。知らざるなり

〔クセ〕
地謡「然るに平家。世を取って二十余年。まことに一昔の。過ぐるは夢の中なれや。寿永の秋の葉の。四方の嵐に誘われ散り散りになる一葉の。舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず。籠鳥の雲を恋い。帰雁列を乱るなる。空さだめなき旅衣。日も重なりて年月の。立ち帰る春の頃。この一ノ谷に籠りて暫しはここに須磨の浦
シテ「後ろの山風吹き落ちて
地謡「野も冴えかえる海際に。船の夜となく昼となき。千鳥の声も我が袖も。波に萎るる磯枕。海士の苫屋に共寝して。須磨人にのみ磯馴松の。立つるや夕煙柴と云ふもの折り敷きて。思いを須磨の山里に。かかる所に住まいして。須磨人になり果つる一門の果てぞ悲しき

シテ「さても如月六日の世になりしかば。親にて候経盛我らを集め。今様を謡い舞い遊びしに
ワキ「さてはその夜の御遊びなりけり。城の内にさも面白き笛の音の。寄手の陣まで聞こえしは
シテ「それこそさしも敦盛が。最期まで持ちし笛竹の
ワキ「音も一節を謡い遊ぶ
シテ「今様朗詠
ワキ「声ごえに
地謡「拍子を揃え声を上げ

(中之舞)

〔ワカ〕
シテ「さる程に。御船を始めて

地謡「一門皆々船に浮かめば乗り遅れじと。汀に打ち寄れば。御座船も兵船も遥かに延び給う
シテ「せん方波に駒を控え。呆れ果てたる。有様なり。かかりけるところに
地謡「後ろより。熊谷の次郎直実。遁さじと。追っ駈けたり敦盛も。馬引き返し。波の打ち物抜いて。二打ち三打ちは打つとぞ見えしが馬の上にて。引っ組んで。波打際に落ち重なって。ついに。討たれて失せし身の。因果はめぐり逢いたり敵はこれぞと討たんとするに。仇をば恩にて。法事の念仏して弔わるれば。終には共に。生まるべき同じ蓮の蓮生法師。敵にてはなかりけり。跡弔いて。賜び給え。跡弔いて賜び給え

DATA
観世・金春・宝生・金剛・喜多

作者:世阿弥
分類:二番目物、公達物
季節:秋八月
場所:摂津国須磨浦
原典:『平家物語』敦盛最期
太鼓:なし

登場人物
前シテ:草刈男
後シテ:平敦盛の霊
前ツレ:草刈男(複数)
ワキ:蓮生(熊谷直実)
アイ:里人

能の詞章
敦盛 / 猩々 / 経政 / 船弁慶