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※観世流の謡本に基づいたものですが、現代かなづかいにしたり、表記は読みやすいように改めました。太字が謡、それ以外がセリフです。

〔名乗リ〕
ワキ「これは仁和寺御室に仕え申す。僧都行慶にて候。さても平家の一門但馬の守経正は。いまだ童形の時より。君御寵愛なのめならず候。然るに今度西海の合戦に討たれ給いて候。また青山と申す御琵琶は。経正存生の時より預け下されて候。かの御琵琶を仏前に据え置き。管弦講にて弔い申せとの御事にて候ほどに。役者を集め候

〔サシ〕
ワキ「げにや一樹の蔭に宿り。一河の流れを汲むことも。皆これ他生の縁ぞかし。ましてや多年の御知遇。恵みを深くかけまくも。忝くも宮中にて。法事をなして夜もすがら。平の経正成等正覚と。弔い給うありがたさよ

〔上歌〕
地謡「殊にまた。かの青山と云う琵琶を。かの青山と云う琵琶を。亡者のために手向けつつ。同じく糸竹の声も仏事をなし添えて。日々夜々の法の門貴賎の道も。あまねしや貴賎の道もあまねしや

<上歌の間にシテ登場>

〔サシ〕
シテ「風枯木を吹けば晴天の雨。月平沙を照らせば夏の夜の。霜の起居も安からで。仮に見えつる草の蔭。露の身ながら消え残る。妄執の縁こそ。つたなけれ
ワキ「不思議やなはや深更になるままに。夜の燈火幽かなる。光の中に人影の。あるかなきかに見え給うは。如何なる人にてましますぞ
シテ「われ経正が幽霊なるが。御弔いのありがたさに。これまで現れ参りたり
ワキ「そも経正の幽霊と。答うる方を見んとすれば。また消え消えと形もなくて
シテ「声は幽かに絶え残って
ワキ「正しく見えつる人影の
シテ「あるかと見れば
ワキ「また見えもせで
シテ「あるか
ワキ「なきかに
シテ「陽炎の

〔上歌〕
地謡「幻の。常なき身とて経正の。常なき身とて経正の。もとの浮世に帰り来て。それとは名のれどもその主の。形は見えぬ妄執の。生をこそ隔つれども我は人を見るものを。げにや呉竹の。筧の水は変わるとも。住み飽かざりし宮の中。幻に参りたり夢幻に参りたり

ワキ「不思議やな経正の幽霊形は消え声は残って。なおも言葉を交わしけるぞや。よし夢なりとも現なりとも。法事の功力成就して。亡者に言葉を交わすことよ。あら不思議の事やな
シテ「われ若年の昔より宮の内に参り。世上に面をさらすことも。偏に君の御恩徳なり。中にも手向け下さるる。青山の御琵琶。娑婆にての御許されを蒙り。常は手馴れし四つの緒に

〔下歌〕
地謡「今も引かるる心ゆえ。聞きしに似たる撥音の。これぞ正しく妙音の。誓いなるべし

〔上歌〕
地謡「さればかの経正は。さればかの経正は。未だ若年の昔より。外には仁義礼智信の。五常を守りつつ。内にはまた花鳥風月。詩歌管弦を専らとし。春秋を松蔭の草の露水のあわれ世の心に洩るる。花もなし心に洩るる花もなし

ワキ「亡者のためには何よりも。娑婆にて手馴れし青山の琵琶。おのおの楽器を調えて。糸竹の手向けを勧むれば
シテ「亡者も立ち寄り燈火の影に。人には見えぬものながら。手向けの琵琶を調むれば
ワキ「時しもころは夜半楽。眠りを覚ます折節に
シテ「不思議や晴れたる空かき曇り。にわかに降り来る雨の音
ワキ「しきりに草木を払いつつ。時の調子もいかならん
シテ「いや雨にてはなかりけり。あれ御覧ぜよ雲の端の
地謡「月に双びの岡の松の。葉風は吹き落ちて。急雨の如くに訪れたり。面白や折からなりけり。大絃はそうそうとして。急雨の如しさて。小絃は切々として。ささめごとに異ならず

〔クセ〕
地謡「第一第二の絃は。索々として秋の風。松を払って疎韻落つ。第三第四の絃は。冷々として夜の鶴の。子を憶うて籠の中に鳴く。鶏も心して。夜遊の別れとどめよ
シテ「一声の鳳管は
地謡「秋秦嶺の雲を動かせば。鳳凰もこれに愛でて。梧桐に飛び下りて。翼を連ねて舞い遊べば。律呂の声々に。情声に発す。声文をなすことも。昔を返す舞の袖。衣笠山も近かりき、面白の夜遊やあら面白の夜遊や

地謡「あら名残惜しの。夜遊やな

<翔>

シテ「あら恨めしやたまたま閻浮の夜遊に帰り。心を延ぶる折節に。また瞋恚の起こる恨めしや
ワキ「前に見えつる人影の。なお現るるは経正か
シテ「あら恥ずかしや我が姿。早や人々に見えけるぞや。あの燈火を消し給えとよ
地謡「燈火を背けては。燈火を背けては。共に憐れむ深夜の月をも。手に取るや帝釈修羅の。戦いは火を散らして。瞋恚の猛火は雨となって。身にかかれば。払う剣は。他を悩まし我と身を斬る。紅波は却って猛火となれば。身を焼く苦患。恥ずかしや。人には見えじものを。あの燈火を消さんとて。その身は愚人。夏の虫の。火を消さんと飛び入りて。嵐と共に。燈火を嵐と共に。燈火を吹き消して暗まぎれより。魄霊は失せにけり魄霊の影は失せにけり

DATA

観世・金春・宝生・金剛・喜多
(観世・金剛では『経正』)

作者:世阿弥か?
分類:二番目物、公達物
季節:秋九月
場所:京都洛西仁和寺
原典:『平家物語』経正都落
太鼓:なし


登場人物
シテ:平経正の霊
ワキ:僧都行慶

能の詞章
敦盛 / 猩々 / 船弁慶