大納言の姫猫?


 『更級日記』は文学少女だった一女性が後になって前半生を省みて記した回想録です。著者は菅原孝標女と呼ばれており、本名や通称は分かりません。

 これを読んで思ったのは今も昔もファンの心理って変わらないってことですね(笑) 著者は『源氏物語』の大ファンなんですが、何かあるごとに浮舟などに思いは飛んで行くみたいです。ほかにも父・孝標の上総介の任期が終わっての都へ戻る道すがら、『古今和歌集』などの物語の舞台となった土地土地のレポートを書いている辺りが、今のネットでの文学ファンにも通じるなぁ、と思ったりします。

 ちなみに孝標女は、この私の大好きな『蜻蛉日記』著者の藤原道綱母の姪に当たります。道綱母の妹の娘なんですね。もっとも姉妹と言っても年齢差が40歳ほどあるらしいので(すげぇ!?)、両日記の作者の対面、ということはなかったみたいですが。都に戻った孝標女に『源氏物語』50余巻を与える「伯母なる人」というのは道綱母に違いない、と始めのころは思い込んでいたのですけれど、どうやら違うみたいです。

 この『更級日記』にも猫が登場します。

 花の咲き散るをりごとに、乳母亡くなりし折ぞかしとのみあはれなるに、同じ折亡くなり給ひし侍従大納言の御娘の手を見つつ、すずろにあはれなるに、五月ばかり、夜更くるま物語を読みて起き居たれば、来つらむ方も見えぬに、いと和う鳴いたるを、驚きて見れば、いみじうをかしげなる猫あり。いづくより来つる猫ぞと見るに、姉なる人、
「あなかま、人に聞かすな。いとをかしげなる猫なり。飼はむ」
とあるに、いみじう人慣れつつ、傍らに打ち臥したり。尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふに、全て下衆の辺りにも寄らず、つと前にのみありて、物も汚げなるはほかざまに顔を向けて食はず。

(『更級日記』治安2年5月)

 花が散るのを見て、前の年の同じころに亡くなった孝標女の乳母や大納言の姫君のことを思い返して悲しくなっていたころの話。夜遅くまで物語を読んで起きていたところ、ふと猫の鳴き声が聞こえたのでした。驚いて見回すと確かに可愛らしい様子の猫がいます。どこからか来たのだろうと考えていると、姉が来て「静かに。人に言っちゃダメよ。可愛いから私たちで飼いましょ」というので飼うことになったのでした。

 当時のイエネコは高級ペットで、いわゆる「ノラネコ」はいなかったのでした。ヤマネコとかは別ですが。そのため、この猫もどこかの家で飼われていたもので、偶然、孝標女宅にさ迷い込んだものと考えられます。だから「あなかま。人に聞かすな(静かに。人に言っちゃダメよ)」なんですね(^_^;) 次の文に「尋ぬる人やあると、これを隠して飼ふ」とあるのも同じことです。探してる人がいると困るので秘密に飼うんです。ワルですね、この姉妹(笑) まるで拾ったものを交番に届けない人のようです。

 「全て下衆の辺りにも寄らず、つと前にのみありて、物も汚げなるはほかざまに顔を向けて食はず」 身分の低い者の近くに寄らず、孝標女や姉の近くにばかりいて汚いような食べ物は口にしないとあるわけですが、ここからも以前はかなり高貴な家で飼われていたことを想像させます。

 姉妹の中につとまみれて、をかしがりらうたがる程に、姉の悩む事あるに、もの騒がしくて、この猫を北面にのみ在らせて呼ばねば、かしがましく鳴きののしれども、なほ、さるにてこそはと思ひてあるに、患ふ姉驚きて、
「いづら、猫は。こちゐてこ」
とあるを、
「など」
と問へば
「夢に、この猫の傍らに来て、『おのれは侍従の大納言殿の御娘の、かくなりたるなり。さるべき縁のいささか在りて、この中の君のすずろにあはれと思ひ出で給へば、ただ暫しここに在るを、この頃下衆の中に在りていみじう侘びしきこと』と言ひていみじう泣く様は、貴にをかしげなる人と見えて、うち驚きたれば、この猫の声にてありつるが、いみじうあはれなるなり」
と語り給ふを聞くに、いみじくあはれなり。

(『更級日記』治安2年5月)

 そのうち姉が病気になったので、仕方なく猫は北面の曹司に入れることになりました。北面の曹司は、南を正面とすると裏側にあたる使用人の中でも身分の低いものに与えられる曹司でした。能因本『枕草子』では「人にあなづらるるもの」に挙げられているものでもあります。そんな周りに「下衆」のいる場所に閉じ込められ不満なのか、猫は騒がしく鳴いたのでした。

 そんな中、姉がひとつの夢を見ます。それは猫が「私は侍従大納言の娘です」と名乗る夢でした。侍従大納言と呼ばれた藤原行成は三蹟の1人としても数えられる能筆家で、彼が字を書いた紙は誰もが欲しがったものでした。『枕草子』128段には「僧都の君いみじう額をさへ突きて、取り給ひてき」とあって、中宮定子の弟である隆円僧都が清少納言を拝むようにして行成の書を分けてもらったという話が載っています。娘もまた父に似て書が巧みであったようで、孝標女は彼女の書を手本として手習いをしていたのでした。

 孝標女と行成女は、孝標女が1歳年下の同年代だったのでした。とはいっても片や受領の娘、片や大納言の娘ですが。しかも行成女は、時の最高権力者である前太政大臣藤原道長の六男長家を夫としていました。その身分差は随分大きかったと思います。長家15歳・行成女12歳での結婚の様子はまるで雛遊びのようであったと『栄華物語』に書かれていますが、こういった物語的なエピソードと手習いの手本としての字のために、孝標女はかなり行成女に憧れていたのでしょう。

 行成女の書を孝標女が持っていたのは、あるいは父同士の関係かもしれません。というのは、菅原孝標は若いころ六位蔵人に補せられ、当時、蔵人頭だった藤原行成の部下だった時期があるからです。六位蔵人は六位でありながら殿上を許される名誉ある官職でした。『更級日記』を読む限り、それほどやり手には思えない菅原孝標ですが、実はなかなかのエリートだったようです。2人の上司−部下の関係は、1年間に過ぎませんが、その当時の行成の日記『権記』には孝標の名前が20数回も登場するそうで、行成から「出来るヤツ」と思われてたみたいです。

 話を『更級日記』に戻しますが、夢の中で大納言の姫の猫は訴えます。「少しの縁があって、この家の中君(次女)がしきりにかわいそうだとお思い出し下さったので、ここに来たのです。しかし、この頃は下衆の部屋に入れられてひどく辛いこと」と。そう言いながら泣く姿は上品で美しい姫君のものであり、声はふと起きるとあの猫の声だったのでした。

 これを聞いた孝標女も非常に感動します。どうやらこの後、この猫は「大納言の姫君」と呼ばれるようになるようです。

 その後、父・孝標も冗談で「大納言殿に知らせ奉らばや」と言ってはいたようですが、そのまま1年後の4月、孝標女宅を襲った火事の中で猫は焼け死んでしまったのでした。

 そのかへる年、四月の夜中ばかりに火の事ありて、大納言殿の姫君と思ひかしづきし猫も焼けぬ。「大納言殿の姫君」と呼びしかば、聞き知り顔に鳴きて歩みきなどせしかば、父なりし人も「珍らかにあはれなる事なり。大納言に申さむ」などありしほどに、いみじうあはれに口惜しく覚ゆ。
(『更級日記』治安3年4月)

(written on 2002/10/21)


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