倭人、棊博の戯を好む


 日本の様子を伝える最古の文献は、中国の史書である『三国志』です(『三国志』の中の『魏志』東夷伝倭人条、俗に言う「魏志倭人伝」ってヤツです)。日本の囲碁のことを伝える最古の文献もまた、中国の史書である『隋書』でした。

 楽に五絃の琴・笛あり。男女多く臂に黥し、面に点し身に文し、水に没して魚を捕う。文字なし、ただ木を刻み縄を結ぶのみ。仏法を敬す。百済に於いて仏経を求得し、始めて文字あり。卜筮を知り、もっとも巫覡を信ず。正月一日に至るごとに、必ず射戯し、酒を飲む。その余の節はほぼ華と同じ。棊博・握槊・樗蒲の戯を好む。
(『隋書』東夷伝倭国条)

 589年に南朝の陳を滅ぼして中国の統一を果たした隋は、その広大な領土と中央集権体制を以って周辺諸国へをもその手を伸ばし始めます。朝鮮半島の高句麗・新羅・百済の三国は、隋に朝貢するようになりました。日本もその影響を受け、隋と国交を結ぼうと遣隋使の派遣を行っています。

 『隋書』では、その第1回遣隋使の記事(開皇20年(600)、推古15年)に合わせて、日本の風俗・官位・服飾・刑罰制度・文化・気候・地理・周辺国との関係などを記しています。遣隋使として中国へ渡った留学生・留学僧たちが中国の最新知識を多く身に付けて帰ってきたことは、大化改新以後の歴史が示していますが、他方、中国側の日本に関する知識も隋代にかなり豊富になったのか、それ以前の史書に比べて随分具体性を帯びてきます。

 上に引いたのはその中の文化の部分で、囲碁に触れているのは「棊博・握槊・樗蒲の戯を好む」という最後の文です。「棊博」は囲碁、「握槊」は双六、「樗蒲」は博打のことです。日本の史書に囲碁のことが登場するのはこの100年以上も後の話です(『続日本紀』天平10年(738)7月10日条)が、囲碁がわざわざ名を挙げて「好む」と記されているからには、単にすでに伝来していたことを示すだけでなく、知識人階級には広く普及していたことを物語るのだと思います。

 ちなみにここで囲碁と並べて挙げてある双六は、『日本書紀』持統3年(689)12月8日条に「双六を禁断す」として登場してきますが、こちらも『隋書』の記述からは約90年のタイムラグがあります。史書は特に記すべきことのみを記すわけですから、囲碁や双六といった遊戯は、記される以前から特に記す必要もないほどに普及していたのでしょう。それが689年に至って双六があまりの流行し他の事を疎かにする者が多いために禁断されたり、738年に起きた殺人事件の際に囲碁をしていたために記されたに過ぎないのです。

 遊戯の歴史を辿ることの難しさを感じます。

(written on 2002/11/11)


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