和歌に詠まれた囲碁


 平安時代になると、いくつかの和歌集に囲碁のことを詠んだ和歌が登場してきます。それらをまとめて見ることにします。

 まずは平安時代最初の勅撰和歌集である『古今和歌集』より。

 筑紫に侍りける時に、まかり通ひつつ、碁打ちける人のもとに京に帰りまうで来て遣はしける   紀友則
ふる里は見しごともあらず 斧の柄の朽ちし所ぞ恋しかりける

(『古今和歌集』巻十八)

 紀友則といえば、『土佐日記』の作者である紀貫之の従兄弟で、『古今和歌集』の編纂にも参加した歌人です。『百人一首』にも採られた「久方の光のどけき春の日に しづ心なく花の散るらん」の和歌が、ゆったりした春の様子を詠っていて、私、大好きです。

 「斧の柄の朽ちし所」というのは、中国・晋の王質という男が分け入った山中で仙童の囲碁に見とれていると、携えていた斧の柄が朽ちてしまい村へ帰ると知人は皆故人になっていた、という故事に由来する言葉です。囲碁に熱中すると時間を忘れてしまう様子をいっているわけですね。この場合は「斧の柄の朽ちし所」で囲碁を打った筑紫のことを指しています。

 「ふる里」は友則の故郷ですから京都のこと。筑紫に国司で行っていた友則が、赴任先でともに碁を囲んだ相手を懐かしみ送った和歌です。(帰ってきた都は、昔のようになじみ深い感じはしません。あなたと斧の柄が朽ちるほど長く楽しんだ筑紫が恋しいことです)ぐらいの意味ですね。囲碁を通じての地方官人との交情が伺えます。


 次は『後撰和歌集』。『古今和歌集』の後に選ばれた和歌集だからですね。分かり易い名前です(笑)

 院の殿上にて、宮の御方より碁盤出ださせ給ひける、碁石笥の蓋に   命婦いさぎよき子
斧の柄の朽ちむも知らず君が世の尽きむ限りはうちこころみよ

(『後撰和歌集』巻二十)

 「命婦いさぎよき子」、インパクトのある名前ですね(笑) 漢字で書いたら「清子」だったと思います。当時の女性名の読み方は、はっきり分かっていないのですが、藤原良房の娘で文徳天皇の妃になった藤原明子(あきらけいこ)なんてのもあります。この場合は、「明」を「あきらけき」と読んで最後の「き」を音便で「い」に変えているのでしょうから、「形容詞+子」という読み方にしているわけです。女性の名前の歴史を考える上で、面白い話ですね。

 この場合の「院」とは朱雀上皇、「宮の御方」とは院の女御である煕子女王のこと。朱雀上皇と煕子女王が碁を打つことにでもなったのでしょう。その時に碁盤と一緒に出してきた碁笥(碁石入れ)に命婦いさぎよき子が命じられて書いた和歌です。(斧の柄の朽ちるほど碁を見ていたという話のように、時が経つのも忘れて、この世が終わるまででも打ち続けてください)という意味。また斧の柄の話が出てきますが、碁に関する話としてかなりメジャーだったみたいです。


 最後が『拾遺和歌集』より。『後撰和歌集』で更に漏れた和歌を集めた歌集という意味ですね。

 内侍馬が家に、右大将実資が童に侍りけるとき、碁打ちにまかりたりければ、物書かぬ草子を掛物にして侍りけるを見て   小野宮太政大臣
いつしかと開けて見たれば浜千鳥 跡あることに跡のなきかな

(『拾遺和歌集』巻九)

 小野宮太政大臣とは藤原実頼のこと。右大将実資は実頼の孫、後に『小右記』を遺した藤原実資のことです。孫ながら実頼の養子となり、小野宮家の家督が譲られていますから、最愛の孫であったことが想像できます。馬内侍は、斎宮女御徽子・円融中宮皇子・大斎院選子・東三条院詮子・一条皇后定子など、超一流の女性たちに歴年使えた女房で、当時のスーパーキャリアウーマンといってよいでしょう。

 実資がまだ子どものころ、その馬内侍のところに碁を打ちに行ったのでした。当時の碁の勝負は基本的に何かものをかけて行う掛碁だったようです。馬内侍は掛物に「物書かぬ草子」、つまりまっさらなノートを用意したわけですが、そこに登場したのが、実頼お祖父さま。(掛物の草子の中身が知りたくて開けて見たところ、浜千鳥の後、つまり勝ったしるしに何かあるべきなのに、何もないとは、もらうかいものない)という意味です。実資にあげるんだから、もっと良いものを用意しなさいって感じでしょうか。祖父バカ実頼?(笑) まあ、遊興の類でしょうけれどね。


 ほかにも囲碁の様子を詠った歌はあると思いますが、たった三十一文字から、当時の囲碁の様子が伺えるところもあって、楽しい気持ちになるものです。

(written on 2003/01/05)


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