兵庫寮囲碁殺人事件


 日本の正史書とされる「六国史」に初めて囲碁が登場するのは、『続日本紀』の聖武天皇の時代の話です。しかも、囲碁をしていて口論となり、片方が斬り殺されたというショッキングな記事でした。

 左兵庫少属従八位下大伴宿禰子虫、刀を以て右兵庫頭外従五位下中臣宮処連東人を斬殺す。初め子虫は長屋王に事へて頗る恩遇を蒙れり。是に至りてたまたま東人と比寮に任ず。政事の隙に相共に碁を囲む。語、長屋王に及べば憤発して罵り、遂に剣を引き斬殺す。東人は長屋王の事を誣告せし人なり。
(『続日本紀』天平10年7月10日条)

 左兵庫少属だった大伴子虫が、右兵庫頭の中臣東人と碁を打ちながら話しているうちに、いさかいが起こり、ついに子虫が剣を抜き東人を斬り殺してしまったのです。左兵庫寮と右兵庫寮(こういう対応する役所を「比寮」というんですが)の違いはあるものの、少属(四等官)が頭(長官)を殺したのですから、当然、子虫は厳罰を受けるはずなのですが、その形跡は全くありません。

 その代わり、「東人は長屋王の事を誣告せし人なり」と記されています。「誣告」とは、真実を故意に捻じ曲げて訴え出ることを言います。当時の刑法に当たる律(律令の「律」のことです)には「謀反・大逆・誣告の者は斬」とあり、天皇に対する謀反罪・大逆罪と同様の重大犯罪とされています。この事件の場合、東人は誣告を行った人物だから子虫が斬ったことは刑の執行の代わりである、という理屈で小虫を不問にしているのでしょう。

 長屋王は奈良時代初期の左大臣で、天武天皇の皇孫・高市皇子の子です。藤原不比等亡き後の政府の首班でしたが、天平元年(729)、謀反の疑いを受けて滅びました。この時、長屋王の罪を密告した者の名として、中臣東人の名前は確かに載っています。

 左京の人、従七位下漆部造君足・無位中臣宮処連東人ら密告して称す。「左大臣正二位長屋王、私かに左道を学びて国家を傾けんとす」 その夜、使を遣はして固く三関を守らしむ。因りて式部卿従三位藤原朝臣宇合・衛門佐従五位下佐味朝臣虫麻呂・左衛士佐外従五位下津嶋朝臣家道・右衛士佐外従五位下紀朝臣佐比物らを遣はして、六衛の兵を将て長屋王の家を囲む。
(『続日本紀』天平元年2月10日条)

 この記事には、長屋王は「左道」、つまり邪まな呪術を行っているという密告が受け入れられ、戒厳令が敷かれた様子が記されています。事件の処理が終わった後、この密告者2人は一気に外従五位下の位を賜りました。しかし、これらを記す『続日本紀』の編纂時点では、長屋王が無実の罪をでっち上げられたと認められていたのようで「誣告」と記されたのです。

 注意深く見たいのは、「政事の隙に相共に碁を囲む」という一文です。天平年間にはすでに下級官人の休憩所のような場所にも碁盤が置かれていたことが伺えます。「休憩時間やし、気晴らしに一局打つか」というような場面もわりとあったんでしょうね。奈良時代にはすでに囲碁がかなり普及してたらしいことが分かります。

 碁を打ってたうちに起きた殺人事件。斬り殺された東人の血が降りかかる碁盤…。ちょっと『ヒカルの碁』で佐為の宿っていた碁盤をイメージした私でした(笑)

追記。
 歴史小説家の永井路子さんが『万葉集』に63首の相聞歌を残した中臣宅守と狭野弟上娘子を題材に書いた短編『火の恋』(『裸足の皇女』に収録)。この作品では、中臣東人が宅守の父とされています。根拠の『中臣系図』が疑いの残る史料ではありますが、そう考えるとまた面白いですね(^^)

(written on 2002/11/05)


トップゆげひの碁>兵庫寮囲碁殺人事件
「世の中に昔語りのなかりせば―」
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/