大伯皇女の薨去


 大津皇子の死後に都へ帰ったあと15年の間、大伯皇女は正史に名前を見せません。ただ大宝元年にその薨去が記されているだけです。

 大伯内親王薨しぬ。天武天皇の皇女なり。
(『続日本紀』大宝元年12月27日条)

 時代は変わっていきました。即位確実と見られた草壁皇子も死に、その母・鵜野讃良皇后が即位して持統天皇となりましたが、彼女は草壁と阿閉皇女の息子である軽皇子(文武天皇)に皇位を譲り、初の太上天皇(上皇)となっていました。都は飛鳥浄御原から藤原へと移っていました。律令も近江令から飛鳥浄御原令を経て忍壁親王と藤原不比等が編纂した大宝律令に変わっています。大宝律令の施行に合わせ皇子・皇女は親王・内親王と書かれるようになっていました。

 その間、大伯はただ静かにひっそりと暮らしていたのでしょうか。正史には何を記されていません。彼女は41歳でなくなったわけですが、結婚などはしていないのだろうか、子どもなどはいないのだろうか、と思ったりもします。もっとも曲がりなりにも「謀反人」の姉です。持統の目を恐れて大伯に近づく男もいなかったかもしれません。

 しかし、それはすべて想像。いろいろと知りたいことは多いですが、史書はそれらに答えてくれません。

(written on 2002/01/30)


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「世の中に昔語りのなかりせば―」
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