草壁皇子薨去


 大津皇子が「謀反」によって処刑された後、相対的に皇太子・草壁皇子の地位はあがり後は即位するのみでした。しかし、父帝・天武天皇の殯(葬送儀礼)が終わって5ヵ月後の持統3年4月、草壁は即位することなく没してしまいます。後の天平宝字2年(758)、岡宮御宇天皇(おかのみやにあめのしたしらしろしめしすめらみこと)と天皇号を奉られました。

 草壁は政治的実績は残せませんでした。天武の病状が悪化したころから、皇太子として政務を執ってはいましたが

 勅して曰ふ、「天下の事、大小を問はず悉く皇后と皇太子に啓せ」と。
(『日本書紀』天武紀、朱鳥元年7月15日条)

とあるように母后・鵜野讃良皇女もまた、ともに政務を執っていました。普通ならば草壁は母よりも長生きしたでしょうが、残念にも草壁独自の政治というのはついに史書に残りませんでした。

 草壁の評判はあまりよくないように思います。その原因として、母である鵜野讃良があまりに強烈な個性を持つ人物であるのでマザコン息子に見えてしまうからでしょう。鵜野讃良はなんといっても、後に即位して持統天皇となり律令国家の礎を築いた世紀の女傑です。

 しかし、上の4首が記されている『万葉集』第2巻を見ていると草壁に関する歌が他にあります。

 日並皇子尊の殯宮の時に、柿本朝臣人麻呂の作りし歌一首。短歌をあはせたり。
天地の 初めの時の ひさかたの 天の河原に 八百万 千万神の 神集ひ 集ひいまして 神はかり はかりし時に 天照らす 日女の命 天をば 知らしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神の命と 天雲の 八重かき分けて 神下し いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の 浄御原の宮に 神ながら 太敷きまして 天皇の 敷きます国と 天の原 石門を開き 神上り 上りいましぬ 我が大君 皇子の尊の 天の下 四方の人の 大船の 思ひ頼みて 天つ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓の岡に 宮柱 太敷きいまし みあらかを 高知りまして 朝言に 御言問はさず 日月の まねくなりぬれ そこ故に 皇子の宮人 行くへ知らずも

 反歌二首。
ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも


 柿本人麻呂は草壁に上のような長い挽歌をささげていますし、また上の挽歌の次には、

 皇子尊の宮の舎人等の、慟傷して作りし歌二十三首。

とあって、それぞれに哀切な和歌が伝わっています。私には人麻呂を含めた舎人たちにこれだけ慕われた草壁がそうそうボンクラには思えません。

 よく草壁の器量なしを示す歌として挙げられる

 日並皇子尊の、石川女郎に贈り賜ひし御歌一首。女郎、字を大名児と曰ふ。
大名児を彼方野辺に刈る草の束の間もわれ忘れめや

(『万葉集』第2巻)

の歌に関しても、前にも書いたように、私としては純朴で妙に技巧を使っていない分、良い歌だと思いますし。

 『万葉集』の配置は草壁に対して意地悪だと思います。大津と石川郎女のやりとりされた歌を載せた後、草壁の歌を載せているので、どうしても比較してしまいがちです。しかし、本来はそれぞれ独立してあった歌を歌集にまとめたわけなのです。

 あくまで私の妄想ですが、草壁は「大名児を…」の歌などから推測すると純朴な優しい人だったのではないだろうか、と思っています。でも優しいだけじゃてモテないんですよね(笑) 優しくて良い人なんだけど何か物足りない。そんな感じだったんじゃないだろうか、と妄想しています。大津が持っている生き生きとした勢いに押されてしまって草壁の存在は霞む。だけれど自信家だけに思いやりが少ない大津よりも、草壁は暖かかったかもしれない、、。

 あーホンマ妄想ですね(笑) あんまし上の段は気にしないで下さいね(^^; たぶん私は、敵側であるはずの『日本書紀』の編者にすら「容止墻岸、音辞俊朗なり」「長に及びて弁しく才学有り」なんてベタ褒めされる大津は好かないだけなのかもしれないですから(笑)


追加。
 最近の私の草壁のイメージは、マンガ『持統天皇物語 天上の虹』(里中満智子/著)のイメージになりつつあります(笑) それだけ、私が元々抱いていたイメージに近く、そしてよく描けているからだと思います。

 決して強くはないけれど優しくて。したくないことも人をがっかりさせたくないから「したくない」といえないぐらい優しくて。大津の死に耐え切れなくて。悲しみをすべて背負うかのように死んでしまった草壁。その死がまた周りを悲しませることは分からなかったけれど。策謀家の藤原史(=不比等)が取り入るために近づいたのを、あまりに真っ直ぐ信頼して、史の方が感激してしまうぐらいだった草壁。

 草壁の死のシーンは強烈です。大津に少しも信頼されてなかったと感じて生きるのに疲れ果て、毒を煽ります。いち早く気付いた阿閉皇女(草壁の正妃)が毒を吐き出させようとしますが、「やめて…やめて、くれ阿閉。生きていくのが辛いんだ。わかって…くれ。少しでも愛してくれるなら、死なせてくれ」と告げます。悶え苦しみ「早くらくに…! してくれ。頼む阿閉! ひとおもいに」と叫ぶ草壁を前に阿閉はたまらず、「あ…ああ、あなた! すぐに…すぐにらくにしてあげる! 愛してるわ!」と帯で草壁の首を締めます。

 息絶えた草壁を前に目から涙を流しながら「愛してるわ……。これでらくになれた……?」とつぶやく阿閉。草壁は苦しみから開放されたのかもしれませんが、阿閉はその分の苦しみを背負って行くことになります…。

(written on 2002/01/30)


トップ大伯皇女と大津皇子>草壁皇子薨去
「世の中に昔語りのなかりせば―」
http://funabenkei.daa.jp/yononaka/